1597年7月、北条氏政は大崎義隆の要請を受けて、新府城、蒲原城へと侵攻していました。氏政はいっとき新府城主・本多忠勝を追いつめながらも援軍に蹴散らされ、結局その攻略は成功しませんでした。
※甲斐への侵攻はやはり失敗。仕事は早いが詰めが甘い。しかし家康は確かにつよい。
1596年10月。春日山落城のひと月前、大崎家は陸前、岩代など大崎領内で総勢およそ3万の部隊を編成。春日山城の援軍を目的として、越後へと向かっていました。
この援軍は春日山城の落城を受けて、春日山城の奪還と徳川領の攻略をめざすことになりました。