【大崎義隆の野望】その11 連合解散

富山城を攻める南条隆信、四釜隆秀隊は、富山城下で徳川の援軍と衝突。これを会戦で破りました。その後、豊臣の援軍も死闘のすえに撃破します。

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※徳川家は越前・北庄城からも6500の援軍を出してきた。大崎軍は満身創痍である。

隆信、隆秀の部隊はほぼ壊滅状態となりながらも、国人衆の力を借りて富山城を包囲します。

 

1597年5月、四釜隆秀隊が城門を破壊。富山城は落城しました。

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※隆秀「富山城、攻め落としてみせたぞ」

両隊はそのまま富山城に入城。戦の最中に捕らえた豊臣家臣・島左近らに切腹を迫りました。

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※ここで豊臣家の主力級武将・島左近を斬ることができたのはでかい。

 

越中の攻略について一番の心配だった甘粕景持隊は、大崎軍の陽動作戦にはまり、右往左往。戦に参戦することはありませんでした。

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※甲斐では北条家が頑張っていたため、徳川家の兵は分散された。その影響もあった。

越中・富山城周辺の情勢は安定していませんが、大崎軍は富山城の攻略という目標をひとまず達成しました。大崎義隆は越中に新たな軍団を新設。その軍団長は、富山城を攻め落とした四釜隆秀が担当することになりました。

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※と、いっても軍団は今のところ富山城だけで孤立。攻められる危険性はかなり高い。四釜隆秀は耐えきれるのだろうか?

 


 

一方、信濃でも戦闘が激化していました。大崎軍は信濃の統一をめざして、陽動をかねて徳川領・豊野城を攻めていました。そこに徳川家の援軍が続々と到着します。

1597年5月、大崎軍は徳川の援軍を豊野城の手前、善光寺でおさえて豊野城を落城。しかし、敵の戦力はこちらよりも強力です。このままではおさえきれず、豊野城はふたたび徳川軍に落とされてしまいます。

大崎軍はこの攻略を成功するため、豊野で大崎軍7954VS徳川軍10401の大会戦を開きました。

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会戦で大崎軍を率いるのは片倉小十郎。徳川軍を率いるのは真田昌幸です。

この会戦では当家・佐竹義重隊に属する大関高増が戦法『離反』を持っていたので、使ってみることにしました。敵方の真田昌幸の戦法『表裏比興』も同士討ち。この会戦は同士討ち合戦のような感じになりました。

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※昌幸に離反が決まったが、小十郎が表裏比興をうけて佐竹義重を攻撃している。両軍、総大将が同士討ちにはまり、ひどい戦場となった。

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※最後は真田昌幸を包囲して撃破。離反はやはり強力な戦法だった。

真田昌幸を打ち破り、大崎軍は勝利。大会戦を制したことにより、豊野における脅威を排除することができました。さらに戦利品として「金陀美具足」を獲得。豊野城の攻略は成功です。

 

豊野で両軍が激しく争っていたとき、豊臣家に従属している池田輝政がその南方にある大崎領・上田城へと侵攻。

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※おそらく、豊臣家からの要請にこたえて岐阜城から出陣。顔は猛禽類っぽい。

信濃軍団長・伊達政宗が池田輝政を迎え撃ちますが、輝政隊の攻撃を受けて撤退。輝政が城の包囲をはじめます。しかし上田城は耐久8500の堅城。さらに伊達政宗が守っており、やすやすとは落ちません。その後、輝政の手で上田城が落城することはありませんでした。

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※政宗「(笑)」

信濃の攻防はこれでいったん終結し、大崎軍は信濃の領地を広げることに成功。ひとまず大崎家の勝利ということにしました。

 


 

―――同じころ、越後・春日山城は豊臣軍の攻撃にさらされ続けていました。豊臣家としても、大崎家に春日山城を落とされたままという状況を許すわけにはいかないのでしょう。

大崎義隆は自ら城下に布陣。敵攻略部隊の第一波を何とか撃破しますが、その後も豊臣軍の手はゆるみません。ついには越前・朝倉山城からもおよそ7000の援軍を派遣してきます。

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※上杉から直江兼続の援軍もあり、どうにかしのいでいる。しかし、細川藤孝隊3000や越前からの援軍も西から迫る、つらい状況である。

 

その最中、1597年7月、反徳川連合は戦の半ばにして期限切れとなり解散しました。

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※1597年7月、連合結成から3年が経過し反徳川連合は解散した。どんよりとしている。武将だけでなく、何となく馬も不満気だ。

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※義隆「あと少しで徳川家康めの息の根を止められたものを」 もちろんこれは義隆の強がりである。しかしこの段階で、次の手はすでに考えていた。

 

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