1596年10月。春日山落城のひと月前、大崎家は陸前、岩代など大崎領内で総勢およそ3万の部隊を編成。春日山城の援軍を目的として、越後へと向かっていました。
この援軍は春日山城の落城を受けて、春日山城の奪還と徳川領の攻略をめざすことになりました。
雪辱をめざす義隆はこれと平行して、反徳川連合の加入勢力、北条家に徳川領・甲斐への攻撃を強めるように指示。北条軍は富士吉田城主・酒井忠次を追い詰めます。
1596年11月。甲斐・越後・信濃を主戦場とした戦が始まりました。
大崎侵攻軍はこの戦で、信濃・越後の攻略を目指します。また、あわよくば越後の先、越中・富山城まで攻め上るつもりです。
※能登・加賀・越中の周辺は、春日山城攻略に力を使いはたして疲弊している。攻略のチャンスと踏んだ。
さて、まずは春日山城を奪還しなければなりません。春日山城は徳川に攻略されたものと思っていましたが、実際には豊臣領となっていました。
春日山城下には攻略に参加した徳川軍が2部隊駐留していましたが、すぐに離脱。真田昌幸隊は北条軍から攻撃を受ける甲斐へ向かい、もう一方の本多忠勝隊は大崎領・飯山城の攻略に向かいます。徳川軍がいなくなった春日山城の守備は手薄となりました。
※徳川軍は大崎軍の侵攻を前にしながらも防衛を放棄した。春日山城が豊臣家のものとなったので自領を優先したのだろう。大崎領の攻撃を始めた本多忠勝は、陽動のつもりだろうか。
大崎軍はまず背後の憂いを断つため、本多忠勝が攻める飯山城の防衛にあたります。飯山城下で本多忠勝隊と接触。防衛会戦で勝負をつけることにしました。
※本多忠勝はプレッシャーを放ちながら大崎軍へと猛進。相変わらず怖い顔である。
※忠勝の固有戦法『蜻蛉切』は槍の名前である。この槍の先にかわいそうなトンボが止まったら真っ二つになったということで名前がついたらしい。しかし固有戦法名は自己紹介が多い中、忠勝は武器の名前。もしかすると武器が本体なのかもしれない。
敵方の本多忠勝は固有戦法『蜻蛉切』を発動して奮戦しますが、数の差には勝てず潰走。猛者・忠勝を相手に、大崎軍が圧倒しました。
※忠勝をうまいこと包囲した。名槍・蜻蛉切で武装した強面の本多忠勝も、こうなってはどうしようもない。そのまま壊滅した。
飯山城の防衛に成功した大崎軍は、春日山城へと向かいます。春日山城を守るのは七尾城主・毛利勝永です。しかし勝永は当家の兵力を前にして撤退。春日山城主・筒井定次は侵攻を受けて城下に出陣しますが、当家はこれを会戦で撃破しました。
豊臣軍は兵をつかいはたし、春日山城に送る援軍を出せません。越前にも兵力はありますが、遠すぎるのです。12月、春日山城主として赴任していた筒井定次は敗北を悟ったのか、大崎軍に投降しました。
※隆秀「春日山城は我らに降るとのこと」 豊臣軍による落城から、およそ2ヶ月後のことであった。
春日山城の攻略をはたした侵攻軍は、そのまま越中へと向かいます。しかし、その進軍上に富山城主・真田幸村が立ちはだかりました。これを受けて南条隆信は不動山で会戦を展開します。
※幸村「赤備えよ! 炎となりて敵を焼き尽くせえぇ!(発動時のボイスまま)」 このように【信長の野望・創造PK】の真田幸村は相当に痛く熱い武将なのだ。しかし本気なので笑ってはいけない。ちなみに彼はこのとき三十路であった。
※ゆきむら「見事な戦いぶり……だが、まだだ!」 こんな苦境でも真田幸村は諦めない。なぜなら彼は六文銭を掲げているからだ。でもそのまま壊滅した。
1597年3月。幸村隊を破った大崎軍は、越前・魚津城に到達しました。そして四釜隆秀、南条隆信、一栗高春らは魚津城を通過し、富山城へと向かいます。富山城は城主・真田幸村が壊滅して兵力を喪失しています。これが攻略の好機と見ました。
しかし当然、徳川軍は富山城へと援軍を向かわせます。特に厄介なのは、信濃にひかえる甘粕景持部隊、兵力15000です。そこで義隆は侵攻軍の半数に徳川領を攻撃させて陽動。敵の混乱を誘います。
富山城を落とし、越中をものにすれば徳川家攻略の大きな一歩となります。しかし、そこにいたるには激しい攻防が控えているはずです。春日山城を奪い返した大崎義隆はひとまず面目を保つことができたので、考えることをやめました。