【大崎義隆の野望】その12 二度目の反徳川連合結成

1597年7月、北条氏政は大崎義隆の要請を受けて、新府城、蒲原城へと侵攻していました。氏政はいっとき新府城主・本多忠勝を追いつめながらも援軍に蹴散らされ、結局その攻略は成功しませんでした。

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※甲斐への侵攻はやはり失敗。仕事は早いが詰めが甘い。しかし家康は確かにつよい。

 

 

さて、反徳川連合が解散したので区切りとして、いったん各勢力について状況の確認をしました。

 

各勢力の兵力(数字は兵数)

  • 豊臣家604490
  • 島津家166977
  • 徳川家125520
  • 大崎家84673
  • 北条家66978
  • 最上家27443

このころ豊臣家は四国を統一。大崎家と豊臣家との力の差は歴然としています。その兵力差、およそ7倍。そのまま当たっても勝ち目はなさそうです。

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※というか、現状でまともにやりあっては徳川家にさえ勝てないかもしれない。

 

各勢力の武将

豊臣家

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※名将・島左近は先の戦いで大崎家につかまって斬られたが、全体的に将の能力は高い。

 

大崎家

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※伊達政宗と坂東太郎の性能が光る。南条隆信はぎりぎり統率トップ10に入ることができなかった。

 

徳川家

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※徳川家康がすさまじい存在感。真田親子も家臣になっていて、戦闘能力は高い。

徳川家の武将は強力です。今後、豊臣家との戦いを制すには、なんとしても徳川家を大崎家の手で滅ぼし、家臣団を取り込まなければなりません。

 

 

今後は、以前と同じように連合を利用して豊臣家の動きを制限する方向で考えます。現在、豊臣家と徳川家は停戦状態。当家が反徳川連合を結成すれば、豊臣家はおそらく親徳川連合に加入するでしょう。

しばらく当家の攻略対象となるのは徳川家で、まずは越中の城を攻略して北陸における戦力の安定をはかります。その後は豊臣家に従属している池田家の攻略も視野に入れます。徳川家の勢力は駿河から尾張まで。池田家は美濃に勢力をもっています。

美濃・尾張を攻略して北陸方面から同時に豊臣領に攻めいれば、多少の希望は見えてくるはず。豊臣家とは和解をしながら、ここをうまく攻めたいところです。

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※停戦をしていても、その従属勢力には攻撃できる。ひどい手段だが、もうなんでもありなのである。

その後は政策『遠交近攻』を採用して九州の島津家に接近します。そのころ島津家はどれほどの力を残しているかわかりませんが、彼らと反豊臣連合を結成して、東西から挟み込んで豊臣家を追い詰めます。

北条家については、攻略のめどがたつまでは友好関係をつづけます。

 

 


 

さて同月、義隆は公家をたよって大崎家と豊臣家との和解を請願。豊臣家は朝廷の仲裁を受け入れ、6ヶ月間の停戦となりました。

大崎家はこの6ヶ月の停戦期間で徳川家の攻略に注力し、勢力の拡大、特に越中・富山城周辺の安定をはかります。

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※関白が相手でも無事に和解することができた。麻呂様の手腕はあいかわらず凄まじい。

和解の成立後、義隆はすぐに反徳川連合を結成。豊臣の動きを封じこめにかかります。

 

1597年7月、義隆の呼びかけによって、ふたたび反徳川連合は結成されました。

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※義隆は豊臣家との和解後に連合を組むという、姑息な手段に出た。ちなみに反徳川連合の加入勢力は前回の連合と同じである。

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※最上義光「この機を逃せぬ一息に徳川家を滅ぼさん!」主戦場にいない義光だがやけにノリ気。

 

大崎家は磐城、陸前から15000の軍を編成。まずは越中に向けて進軍をはじめました。

一方、徳川軍も大崎領に向けて出陣します。岡崎城から上田城へ、さらに金沢城主・真田昌幸が富山城へと侵攻。大崎家はまず、これを受けなければなりませんでした。

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※軍団長になった四釜隆秀の不安は的中。さっそく攻められてしまう。

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※政宗は何でそう偉そうなんだ。

 

富山城主・四釜隆秀は真田昌幸の攻撃をうけますが、そこに越中侵攻軍が到着。共同して真田昌幸を撃退しました。

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※能力の高さがいやらしい真田昌幸は、いつも強敵として大崎軍の前に立ちふさがる。あと何度このドヤ顔をおがむことになるのだろうか。

 

その後、徳川家攻略は少しずつ進みます。10月にふたたび軍を編成。魚津城を落城します。12月には、越中・高岡城への攻撃をはじめました。

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※女城主・本多小松にむらがる大崎軍。

しかし、ここで思わぬ展開となりました。

 

1598年12月、豊臣秀吉は徳川家との停戦期間終了と同時に徳川領へと侵攻を開始。徳川家康の不意をついて襲いかかったのでした。

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※緑が豊臣、赤が徳川である。徳川領・尾張は信濃侵攻によって守備が手薄。姑息なのは豊臣家も同じらしい。

 

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