【大崎義隆の野望】その9 栄光の先に

1596年6月、毛利家は豊臣家によって滅亡します。これで、西国で豊臣家に対抗できる勢力は九州を統一した島津家のみとなりました。

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※この画像はその2ヶ月後、8月だが、豊臣家の兵力46万。当家の兵力は9万弱で、5倍ほどの開きがある。島津は兵力13万。四国の長宗我部家は虫の息。宇喜多家は豊臣家に従属している。

 

 

春日山城の攻略に成功し攻勢に出たい大崎家ですが、豊臣家が動いたことで戦局が悪化しました。

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※豊臣家は徳川と連携し、能登・加賀から春日山城へ向けて兵を出した。さらに、豊臣家の従属勢力・池田家と一緒に信濃に侵攻。まずい状況である。

 

しかし、こちらには奥の手、公家に頼っての朝廷和解があります。豊臣家と和解し、この戦から引きずりおろせば、春日山城も防ぎきることができるかもしれません。さっそく義隆は豊臣家との和解を目指して、京へと早馬を走らせました。

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※「朝廷の信用を100消費して停戦します」 この時のために、こつこつと麻呂さまの信用を稼いでいたのである。この和解こそが、春日山城防衛における、大崎家にとっての一筋の光なのだ。

 

 

ところが、その要求は一蹴されました。

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※「敵連合に加盟中の勢力は選択できません」 義隆の目の前は闇に閉ざされた。公家麻呂さまの力をもってしても、敵連合勢力との和解はさすがに無理らしい。というか関白を相手に朝廷和解なんてそもそもできるのだろうか。

 

豊臣との和解がならず残念ですが、仕方がありません。

義隆はひとまず大崎領に向けられた徳川軍の目を逸らすために再度、北条家に新府城への侵攻を命じます。

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※氏政「必ずや目標を陥落させみせましょう」 この台詞を何度聞いただろう。一度くらい、本当に落としてほしいものだ。

 

そして、大崎義隆は自ら出陣。春日山城に侵攻してきた徳川軍・真田昌幸を城下で打ち破りました。

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※真田昌幸の固有戦法『表裏比興』は、前方の敵を同士討ちさせるものだが、戦法にかかった武将は勝手に動き出してキグニ族化する。かかっても部隊の操作ができる『離反』より優れた、究極の同士討ち戦法なのである。

 

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※だが援軍も来て、何とか撃退した。

 

これにより春日山城の脅威は一時的に排除しましたが、徳川の優勢には変わりありません。

本多忠勝の侵攻をうけて、信濃軍団長・伊達政宗は海津城を防衛。猛攻をよく受けていましたが、防ぎきるにはいたりません。政宗は忠勝に敗北。上田城へと撤退しました。

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※伊達政宗は兵力2850。本多忠勝7400の兵を前に敗北した。

 

守備兵を失った信濃・海津城は、本多忠勝の手によって落城しました。

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※「敵に城を奪われました!」 城主を任された桑折宗長は痛恨の面持ちである。

続いて蘆名義広が守る豊野城も攻撃をうけて降伏。信濃における大崎家の勢力は縮小してしまいます。

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※こちらは妙にいさぎよい。

 

そして、大崎義隆が入城していた春日山城も、豊臣軍は撃退しましたが、城兵はその戦いで疲弊。徳川軍を相手に、会戦での撃退をこころみましたが敗北します。春日山城は徳川軍15000の兵に包囲されてしまいます。

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※真田昌幸は先の会戦で撃退した後すぐに出陣して包囲に参加。春日山城は城門が破壊され、炎上している。

こうなると、もう落城を覚悟しなければなりません。しかし、会戦に敗れた義隆は春日山城内に撤退。城に取り残されるかたちとなっていました。

 

大崎家当主・大崎義隆は不運持ちです。不運は敵に捕縛されやすくなる特性。反徳川連合の盟主である義隆が捕らえられれば、切腹の憂き目はまぬがれません。

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※「捕縛されやすくなる」と、シンプルすぎて投げやりにさえ感じさせる不運の説明。ここで切腹させられては、『大崎義隆の野望』は終了してしまう。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

 

春日山城は真田昌幸の強行を受け、落城しました。

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※「城が奪われるとは……」 義隆が春日山城に取り残されたのは自業自得とはいえ、落城の瞬間は吐きそうなほどのプレッシャー。

 

 

義隆は命からがら柿崎城へと退却し、最悪の事態を回避。しかしこの戦での敗北は、義隆にとって屈辱となりました。

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※徳川家康……これで勝ったと思うな! この恥辱、晴らしてみせる……。

 

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