1567年(永禄10年)――織田信長は美濃を攻略。天下布武の朱印を用い、天下統一を視野に入れはじめた。いっぽう中国地方では、毛利家が尼子家を滅亡に追い込み、強大な勢力となっていた。
同じころ。中国地方の山間、美作(みまさか)・高田城に、三つ引の旗が掲げられた。三浦貞久とその叔父・三浦貞盛は旧領回復に成功。三浦家が再興をはたしたのである。
1567年(永禄10年)――織田信長は美濃を攻略。天下布武の朱印を用い、天下統一を視野に入れはじめた。いっぽう中国地方では、毛利家が尼子家を滅亡に追い込み、強大な勢力となっていた。
同じころ。中国地方の山間、美作(みまさか)・高田城に、三つ引の旗が掲げられた。三浦貞久とその叔父・三浦貞盛は旧領回復に成功。三浦家が再興をはたしたのである。
1568年3月。
毛利家による鳥取城の攻略に続くように、播磨では浦上家・宇喜多直家が攻めていた室津城が落城。浦上軍が赤松家との野戦にかかる負担をすべて受け持ちましたが、この戦には毛利家の介入がありました。
そのため室津城は、遅れて包囲に参加した毛利家の勢力下におかれることとなります。
※浦上家の出兵は、毛利家の援軍という扱いだったらしい。宇喜多直家も不服そうに眉をひそめているが、そう見せてすべて手の内かもしれない。
さらには瀬戸内海にある能島村上家の能島城も落城寸前。北九州への侵攻は失敗したものの、毛利家は影響圏をさらに拡大します。
この年は全国的に戦が勃発しました。毛利家にかぎらず、各地の大名家は小勢力を吸収して、徐々に力をつけていきました。