【大崎義隆の野望】その8 春日山落城

大崎家当主・大崎義隆は新たに「不屈」を修得しました。

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※義隆「新たに『不屈』を修得したぞ。この力で、天下を目指す!」

 

1596年3月、大崎軍は春日山城を強行しますが、井伊直政の守る春日山城は堅く、攻略はなかなか進みません。

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そこに新府城主・本多忠勝をはじめとする徳川家の援軍がせまっています。その兵力はおよそ16000。対して当家の兵力は8000です。このまま戦っても勝ち目はありません。

 

そこで、反徳川連合の加入勢力である北条家に新府城の攻略を命じます。狙いは、本多忠勝が率いる11000の兵を撤退させることです。

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※氏政「おそらく激戦となるでしょう……持てる限りの力を尽くします」

 

この侵攻に気付いた本多忠勝は、進行方向を変更。義隆の狙いどおり、どうやら新府城に引き返しました。

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※とりあえず一安心。できればこちらに戻ってきてほしくないが、あとは氏政の頑張りしだい。

 

春日山城では、太田城主・佐竹義重が到着。攻城の主力となって指揮をとります。しかし、そこに徳川の援軍、酒井忠次が迫っていました。

義隆は包囲軍の一部を春日山城の手前、能生に配備。義隆も自ら布陣し、会戦を展開して徳川軍の進行を妨害します。

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※不屈の儂かっこいい……という義隆の不屈アピール。

 

1596年4月、佐竹義重の強行の末に、春日山城は落城しました。大崎家は激戦を制したのです。天下への道に一筋の光明が差しました。

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※攻める鬼と守る鬼。鬼と鬼の戦いのすえに、鬼が勝って春日山城は落城したのだった。

 

しかし、これで戦が終わったわけではありません。春日山城防衛のために出陣した徳川軍は、そのままと進軍してきます。次々と到着する徳川軍を相手に、大崎軍は苦戦。

義隆は能生から後退し、春日山城下に布陣。また、上杉景勝に防衛の援軍を依頼し、徳川軍の打破をこころみました。

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※前方の部隊は何とかなりそうだが、背後にひかえる真田昌幸、兵力12000を倒すのは困難。でも実際には7500の兵だったので大したことはなかった。

 

そして、城下の会戦で敵部隊を迎えうちます。大崎軍は上杉家の援軍もあって、何とかしのいでいました。

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※昌幸「皆、落ち着け! なんということだ……」 しょせん、昌幸は1部隊。堅城に守られば、義隆も戦えるのだ。

 

そこに亘理元宗から伝令がきました。

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※「我らの春日山城を目指し 総勢11500の敵が攻め寄せてくるようです」  ……えっ?

 

 

いったん会戦を中断。周囲の様子をうかがいます。すると、いったん引き返したはずの本多忠勝が大崎領へと向かっていました。

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※画像中央下、大崎領・海津城が攻撃を受けそうになっている。報告と数があっていないので、春日山城に向かっているのがこの部隊かは謎。伊達政宗は春日山城に援軍として来ていたが、この侵攻を受けて海津城の防衛にあたった。

 

北条家に攻略を指示した新府城の様子を見ますが、戦闘が起きている様子はありません。一方、その北、望月城の周辺では合戦が起きていました。

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※望月城の前では、兵数17000の徳川家康が挟撃をうけながらも無双していた。

どうやら、徳川家康が17000の兵で出陣して北条領・望月城を攻撃。北条家はその防衛のために新府城の攻略をあきらめたので、本多忠勝は予定通り進軍を再開した、ということでしょう。どうあれ、当家にとっては危うい状況になりました。

 

義隆は会戦を再開して真田昌幸を撃破。そのまま春日山城に入城して防衛に専念します。

しかしその後も義隆のもとには、次々に敵の出陣情報が届きます。そしてついには、豊臣家も春日山城へと侵攻をはじめました。

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※これはもう不屈とか言っている場合でもないですね……。

大崎領内は敵の脅威にさらされることになり、一気に雲行きが怪しくなったのでした。

 


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