【大崎義隆の野望】その1 天下への道

☆未読の方はまずプロローグを読んだほうがいいかもしれません。

1592年9月。大崎義隆の野望がふたたび始動しました。

しかし、攻略目標としている蘆名家とは、停戦期間を4ヶ月残しています。そこで、ひとまず磐城の相馬領へと侵攻することにしました。3ヶ月後の12月、相馬家は滅亡。大崎家はその勢いのまま更に南にある岩城領・飯野平城へと向かいます。

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※佐竹を攻略するために、このルートを確保することは必要。決して、もののついでで攻略したわけではないのだ。それにしても岩城親隆の顔は面白いですね。

 

さて、11月に伊達政宗が大崎家に帰順しました。しかし、明らかにやる気がありません。

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※「安く見られないように才覚を隠している 本来の実力を見るには時間が必要だろう」 いつ出ていくかという問題も大きい。

 

義隆はその不満を和らげるため、伊達政宗を軍団長としました。

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※「軍団長とはな……必ずや期待に応えよう」

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※といっても、伊達政宗軍団は杉目城のみの名ばかり軍団なのだ。しかし軍団長という響きに浮かれたらしく政宗の忠誠度はちょっと上がった。しかしまだ態度は変わらず、不満たらたらである。

 

翌年1593年1月、停戦期間の満了と同時に、蘆名家が当家・杉目城へと侵攻。7000の兵を出陣しました。

杉目城を任された軍団長・伊達政宗は1000の兵をひきいて出陣。蘆名の軍勢を迎えうちます。

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※さっそく伊達政宗の初仕事である。しかし蘆名家から突然の侵攻である。政宗が蘆名義広を煽った可能性も考えられる。いつ寝返るかと、義隆としては気が気ではない。

 

しかしこれで蘆名領内の守りが手薄になりました。この際、反撃に転じたいところですが、周辺勢力の動きが気になります。

 

まず、越後の上杉家は蘆名家と同盟関係にあって、蘆名家が攻撃を受けると援軍を出すかもしれません。上杉家と当家の関係は『信頼』なので攻め込まれる心配はありませんが、援軍と鉢合わせるとおそらく合戦となり、面倒なことになります。

当家も上杉家には外交工作をしており、あとひと月ちょっとで停戦(援軍の要請)を申し入れることができます。停戦を申し入れるまでは、上杉家が援軍を派遣しそうな黒川城への攻撃をひかえます。

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※上杉家の勢力は黒川城の北西にある。山をはさんでいるが、彼らは意外と簡単に山を超えてくる。

 

佐竹家からの援軍も心配しましたが、佐竹家は北条家の侵攻を受けてそれどころではありません。

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※というか甲斐姫つええ。nanjoとか目ではない。

 

当家はひとまず、陸前あたりから7300の兵を出陣。目的は杉目城の防衛と、会津周辺(黒川城、猪苗代城)の攻略です。

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※杉目城の前では伊達政宗が敵の軍勢を押し返している。とんでもない武将である。

さらに岩城家を攻略していた南条隆信(兵3300)を山越えさせ、蘆名領・須賀川城へと差し向けました。

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翌1593年2月、上杉家との信用が40に達し、援軍の要請ができるようになります。

当家はさっそく米沢城への援軍を要請し、上杉家とは停戦状態となりました。

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※攻められていない城への防衛を依頼。これにより停戦状態となる。

 

これで背後の憂いを断った大崎家は、米沢城から片倉小十郎率いる4800の兵を出陣。さらに陸前から出陣した後続も到着し、合計8600の兵で蘆名家の本城・黒川城へと一気に攻め込みます。

 

蘆名領は多方面からの攻撃に耐え切れず、次々と落城。

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※会戦を使ったからというのもある。

戦が始まってから6ヶ月が経過した1593年7月には、蘆名家の勢力は塩生城を残すのみとなりました。

 

当家は米の収穫を待ち、残る塩生城へと侵攻を開始。しかし気が付くと、北条家も佐竹家を蹴散らし、大田原城を攻略。当家と隣接することになり、一触即発の状況となっていました。

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