【大崎義隆の野望】その2 常陸侵攻

1593年11月。当家は蘆名家を攻略中ですが、最後の蘆名領・塩生城も落城間近です。

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ここで次の目標、常陸の勢力である佐竹家の攻略を並行して考えはじめます。佐竹家は北条家との争いで疲弊しているので、大崎家の独力でも攻略できそうです。

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※佐竹家の兵力17650に対して、大崎家の兵力はおよそ36000。さすがに勝てる。そしてなんとなく義重の表情がジト目に見えてきたぞ。

 

8ヶ月前、当家は岩城家を滅亡させました。そこで得た飯野平城は佐竹領・常陸への侵攻ルート上にあります。ここを陸前から出陣する兵の補給拠点とします。行軍をスムーズにするため、陸前から飯野平城までの街道整備を急ぎました。

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※もう一つの進路は、岩代から南下する道だが、そちらは北条家を挟んでいるので使えない。

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※ちなみに岩城家当主・岩城親隆はご立腹。「どうしてこんなひどいことを!」という声が聞こえてきそうな……抗議のポーズである。

 

佐竹を攻略して関東への進出を果たせば、今後の展開は楽になるはずです。あわよくば大崎家の手で佐竹家を滅亡させて、佐竹家臣団も引き込みたいところです。

ただ、当家の隣国である北条家も佐竹領の切り取りをはかっています。このままだと北条家と領土の切り取り競争となりそうですが、北条家の国力は当家より上。下手に衝突すると厄介なことになります。

さらに北条家は徳川家と婚姻同盟を結んでいるので、最悪、北条・徳川・佐竹、3勢力との戦となります。こうなると、侵攻にかなりの支障がでます。

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※北条家は関東の大部分を支配していて、およそ66000の兵力を抱える大勢力である。当家は兵力36000ほどなので、単純に考えて勝ち目はうすい。そして背後に控える徳川家は兵力122000と文字通りケタ違いである。

 

ここはいったん北条家とは対佐竹の名目で同盟を結び、その期間内に佐竹領を攻略することにします。

北条家には片倉小十郎を差し向けて、こつこつと外交工作を行っていました。その成果がみのり、もうすぐ北条家と6ヶ月の同盟を結ぶことができます。同盟を結べば、北条領となった下野を抜けて佐竹領へと兵を差し向けることもできます。

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※北条領を抜ければ、佐竹領はすぐ先である。というか、ここを通れないと佐竹攻略は厳しい。

 

さて、佐竹攻略の際は大崎領内の防衛が手薄になります。そうなると越後・上杉家も脅威となりそうですが、上杉家は徳川家の侵攻を受け、春日山城で争っていました。こちらに割く兵力はなさそうです。

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※春日山城は、徳川家康10000の兵に攻められている。愛の人が頑張っているが、これは落城も近いか。上杉家もかなり危ない状況になってしまった。

 

翌月、北条家の信用が60に達した時点で、同盟の使者を派遣しました。

それと並行し、陸前からからおよそ10000の兵が出陣。兵力を磐城に集めて佐竹攻略の準備を整えます。

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※一栗高春の非常に地味な進軍。

 

またこの時期、南部家に属していた津軽為信を当家に誘い入れることに成功します。

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※「これほど必要としてくださるとは……喜んで義隆様のお力になりましょう」

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※津軽為信も相当の実力をもった武将だが、必要忠誠は最大値の15。こうなるともう出奔が趣味みたいなものである。今は出奔したばかりだから嬉しくて素直に従っているが、義隆に逆らうようになるのも時間の問題。

これにより当家の戦力も向上。万全の体勢となりました。

 

1593年12月。北条家との同盟は成立しました。この報を受けて、片倉小十郎らが10800の兵をひきいて出陣。北条領を抜けて、佐竹領へとなだれ込みます。

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そして翌1月、敵味方の兵力は太田城下に集結。北条家との同盟期間内に一気にケリを付けたいところです。

数に優る大崎軍は、大会戦による佐竹軍の一掃を狙います。

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大崎軍18194VS佐竹軍12615、御前山の戦いが始まりました。

 

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