☆未読の方は、まずはプロローグを読んだほうがいいかもしれません。
1586年11月、大崎家は伊達家に対して反旗を翻し、従属破棄の使者を送りました。
その返答はすぐに返され、大崎家は伊達家から独立することとなりました。
※伊達政宗「愚かだな……俺と手を切り、生き延びられるとでも?」
その結果、大崎家の外交状況は真っ赤になりました。
※四方八方、日本全国、全ての勢力が当家に敵視である。ここまでくると逆に心地よくすらある。家宝も手に入らず、今のところ外交は諦めた。
さて、まずは葛西家との戦にそなえ、傭兵・高清水衆の懐柔をこころみます。高清水衆はおよそ2ヶ月後には戦に参戦してもらえそうです。それと平行して朝廷への工作を始めました。
大崎家の将来を見据えれば、早めに領地を拡大しなくてはなりません。今の状態では労力もなく、まともな内政もできないのです。
当家の動員兵力は1800。高清水衆を合わせると3000ほどになります。葛西家の城はいずれも耐久度1000なので、会戦を使えば十分落城を狙えると踏みました。
しかし、この時点では朝廷や他家の後ろ盾もなく、伊達家・最上家に対抗する手段はありません。横槍を入れられると防ぎきれない可能性が高く、リスキーですが、大崎家としては速攻をしかけ、一気に葛西領・佐沼城と寺池城を占領して国力を得る腹づもりです。
翌12月、高清水衆の支持が70を越えるころを見はからって、南条隆信900、一栗高春900の部隊が葛西領・佐沼城へと侵攻を始めます。
※佐沼城は柏山明吉、明久親子が守る。その東にあるのが寺池城。
1587年1月、伊達家と最上家が24ヶ月の同盟を結びました。最上家は大崎家をさしおいて、伊達家と友好を結ぶ道を選択。これで当家と最上家とは敵同士になったことになります。辛い展開となってしまいました。
最上と伊達が組んだからといって、ここで進軍を止めるわけにはいきません。大崎家はその動きを無視。佐沼城で敵部隊を挟撃し、大崎家3000VS葛西家1700の攻城会戦を展開します。
この会戦では高清水衆が味方としてかけつけ、勝利を収めます。これにより、佐沼城の耐久度は一気に100まで減少しました。
※柏山明吉「兵が混乱しただと……!? ええい、正気に戻れ」 斉射中の敵部隊に横や後ろから突撃を当てると、敵は混乱する。南条隆信による背後からの突撃がきまった。
耐久度の下がった佐沼城の包囲は1部隊で十分です。その包囲は会戦で兵力が少なくなった南条隆信隊が担当し、一栗高春隊は葛西晴信の居城、寺池城へと侵攻します。
しかし、葛西攻略の最中、伊達領内に動きがありました。伊達成実が2000の兵を、その後から片倉小十郎が1000の兵をひきいて、佐沼城へと向かってきたのです。どうやら、葛西家への援軍のようです。
※伊達家は、当家の兵力に倍する兵力を派遣してきた。嫌な展開となってしまった。兵を率いる伊達成実、片倉小十郎はいずれも名将。しのぐことはできるのだろうか……。