1571年6月、本山親茂は九州への攻略の強化をはかり、畿内・石山御坊を直轄地としました。御坊で持て余していた坊主、下間頼廉が遠征し、同年9月に小倉城を陥落。本山家は島津討伐兵をあげてから4年半にして、ついに九州の上陸を果たしました。
※頼廉の強さは島津の猛将に引けをとらない。その活躍っぷりは遠征軍の中でも際立っている。
その小倉城に、島津攻略のための新たな軍団を創設することにしました。軍団長を任命するため、武将の一覧を見ていると驚愕。あの長宗我部元親が平然と居座っています。
※また村上武吉がやらかしたらしい。すごい既視感だが、国親とは親子だから仕方ない。
と言っても、(どうせ軍団長がまた勝手に登用するので)もう追放する気にもなりません。こうして元親は、本山家と和解(?)。ついに復帰を果たしたのでした。
九州の軍団は結局、黒田官兵衛に任せることにしました。
※前回はわずか2ヶ月で解散してしまったが、今度は大丈夫なはず。画面左側には軍団長がつぶやく欄がある。各軍団長が赤、緑、黄色、ピンクと色分けされていて戦隊ヒーローみたいである。
頼廉の加入もあって、順調に九州の攻略は進みます。そんなおり、鈴木重兼が慌てて親茂のもとにやってきました。どうも、内裏から親茂を関白に就任との使者がやってきたようです。
※これで親茂は征夷大将軍と関白を兼任する、よく分からない存在になった。官位系の戦国伝は進めない方がよかったかもしれない。
その影で、ひっそりと武田家当主・武田信玄が死去。すでにその勢力は本山家、上杉家に飲み込まれ、関東の一部に追いやられていました。
※巨星墜つ。武田家は佐竹家から攻撃を受けており、もうかつての強さも見る影がなくなってしまった。少し寂しい。
そして本山家中でもこの頃、隠居・本山茂宗がすでに齢70。病気がちになっていました。
茂宗は島津打倒のため、老体に鞭打って何度も九州への遠征をしてきました。1576年7月、これが最後の出陣と覚悟し、茂宗は十河城から出陣しました。
※史実からすると驚くほど長生きしたが、ついにその生命は燃え尽きようとしている。しかし、茂宗の魂の炎は決して消えることがないのだ。
苦難の連続だった島津の攻略も、あとわずか。残すは日向、薩摩、大隅のみとなりました。
一方、東方面も三好義賢軍団が順調に攻略しています。そして気が付くと、織田信長が家臣となっていました。しかし、というか案の定、信長は本山家に対して反抗的な態度をとっています。そこで、とりあえず茶菓子で機嫌をとることにしました。
※信長「世に名高きカステラであるな 我が宝に加えさせていただく」 いや……悪くなるからさっさと食いなさい。
さすが戦国の風雲児。