【本山親茂の野望】その5 願わくば、我に七易八楽を与えたまえ

1568年1月、本山家は本願寺最後の砦、尾山御坊を攻略。本願寺家は滅亡しました。その攻略にあたったのは西園寺実充。彼が捕縛した本願寺の将の中には、かつて本山茂辰が本山家から追放した長宗我部元親の姿がありました。

motoyama3_5_1※しかし、解放しました。元親「情けをかけていただけるとは 礼を言わせてもらう」。次はどこへ行くのか、ちょっと楽しみでもある。

西園寺実充はこの実績により、軍団の金銭収入が増加する軍略「和気生財」を習得。覚えられる全ての軍略を習得し、軍団長としてふさわしい人材となりました。

motoyama3_5_2※軍団長は経験を積むと、その人に合った軍略を修得する。軍略は軍団に良い影響を与える。でも、金銭収入が増加するってどれだけの効果があるのか謎。なのでちょっとイマイチに見える。

 

さて、本山家は先の大会戦に勝利した甲斐あって周防高森城を落としますが、その後は一進一退の攻防戦となっていました。本山軍は島津軍の強さに歯が立ちません。さらに島津家は反本山連合を結成して、征夷大将軍・本山親茂に徹底抗戦の姿勢を示しました。

motoyama3_5_3
※島津強い。

親茂は島津領へ向けて何度も遠征をしますが、苦戦。周防の主城、山口館を攻略するまでにおよそ3年の歳月をかけました。島津の軍勢によって、四国勢は次々と討ち死に。親茂は島津家の強さに恐怖し、その戦力を削ぐために捕らえた島津の将を切腹させるという手段に出ます。

motoyama3_5_4※島津貴久、大友義鎮など、名だたる名将がズラリと並んでいるが、彼らはみな親茂の手によって切腹の憂き目にあった。ただ、伊東義祐だけは本山との不戦協定を結んだ功によって解放された。

そんなおり、西四国の土居宗珊の軍団が豊後・白杵城の攻略に成功したという報をうけます。九州上陸の成功に親茂は喜び、その地に黒田官兵衛を軍団長とした軍団を新設しました。

motoyama3_5_5※ここを九州征伐の拠点にしよう! 「軍団長に任じていただけるとは……必ずや期待にお応えします」と、官兵衛も乗り気である。

しかし、その2ヶ月後、白杵城は落城しました。黒田軍団は消滅。幻の軍団となりました。

motoyama3_5_6※ひどい。

一方、本州の西端にある櫛崎城でも、熾烈な攻防戦が起きていました。櫛崎城は関門海峡の入り口で、本山家が九州の攻略をするために、何としても手に入れなければならない重要な拠点です。その地で何度か大会戦も展開しましたが、撃退するたびに島津家の精強な軍勢が次々とやってきてキリがありません。

1570年10月、本山親茂は自らが指揮して櫛崎城の攻城会戦を展開、勝利します。

motoyama6_a

motoyama3_5_7※本山軍33822VS島津軍16386。あの恐ろしい島津義弘、家久の島津兄弟が守り奮戦するも、兵力差で押し切って勝利。

ところが、同月、次々とやってくる島津の大軍勢に包囲を阻まれます。その兵力差は1.5倍。このままでは攻城戦は失敗です。しかし、櫛崎城の攻略を遅らせることを嫌った親茂は櫛崎での大会戦を決断。

motoyama3_5_8※本山軍26615VS島津軍40400。

櫛崎の地では、決戦の始まりを告げる法螺貝の音が響きました。

 

広告