【本山親茂の野望】その8 幽冥のあとさき

1576年12月、本山宗茂は島津領・都之城の攻略を目前にして、病を再発。

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※茂宗「ゴホッゴホッ、不覚 病にかかってしまうとは……」

茂宗は、病をおして本山親茂隊の援軍として志和池の地で合流。しかし、その任を全うする前に力尽き、陣中に没しました。

motoyama3_8_2※「我が野望、ここで潰えるとは……」

1577年1月、享年70。2つの支城から始まった彼の野望もついに、ここに幕を閉じました。本山家中の誰よりも多くの戦に参加し、幾度となく危機を乗り越え、戦場を駆け抜けた英雄の最期は、やはり戦場でした。

 

そして、その1年後。1578年4月に島津家は滅亡しました。10年に及ぶ闘争のすえに、本山家による島津攻略が成ったのです。

motoyama3_8_3※最後の城は安芸国虎が攻略。安芸国虎も優秀な武将に育った。

motoyama3_8_5※攻略を終えて、九州遠征軍は一斉に帰城。長かった。ようやく四国に帰り、兵も一休みできる。

 

しかし、本山家は、島津家を吸収したことによって保守大名から一気に中道大名へと体勢が変化しました。

その急激な変化によって家中は混乱。政策・所領安堵がなくなったことで家臣の不満がたまり、今すぐ保守に帰すべき、と暴動が起きてもおかしくない状態です。変化の主な原因は、本山家の新たな領地、九州に島津家が乱立した大聖堂でした。

しかし、九州の軍団長である黒田官兵衛は大聖堂を潰してくれないし、自分で取り壊すのも面倒です。

motoyama3_8_6 ※九州では島津家の推進したキリスト教が蔓延しており、もはや改宗は不可能。何かあったら怖いし、放っておこう……。

結局、親茂の直轄地である四国に寺、本山を増築。何年か後、本山家の体制は無事に保守に戻り、四国は仏の国、坊主にとって理想世界みたいな場所となりました。

さて、九州の武力統一を果たした本山家は、島津義弘、立花道雪など、島津家の有力な武将を登用。東方の軍団に送り込み、攻略に注力させます。さらに自らが陣頭に立ち、四国から遠征軍が出陣しました。

関東では、上杉・佐竹が連合して北条を攻撃しており、北条が押されています。親茂が到着した時には、盟友・上杉家と本山家とで、領土の切り取り合戦の様相となっていました。

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※上杉は佐竹に城攻めの援軍を頼んだため、佐竹を攻めることはできない。その隙に佐竹の攻略をしてしまおう。

親茂は北条家への攻撃と平行して、佐竹家を攻撃。着々と関東の攻略を進めていきます。

関東で新たに攻略した城には、中国地方で暇を持て余していた村上武吉を国替。軍団を編成し北関東方面の攻略軍としました。あとは北条を取り込んで、攻略を加速したいところです。

しかし、1579年10月、北条家との決着をつけたのは、上杉家でした。

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※1579年10月、北条家は上杉家によって滅ぼされました。

 


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