【三浦貞広の野望】その3 夏に狼煙の臭い立つ

1568年3月。

毛利家による鳥取城の攻略に続くように、播磨では浦上家・宇喜多直家が攻めていた室津城が落城。浦上軍が赤松家との野戦にかかる負担をすべて受け持ちましたが、この戦には毛利家の介入がありました。

そのため室津城は、遅れて包囲に参加した毛利家の勢力下におかれることとなります。

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※浦上家の出兵は、毛利家の援軍という扱いだったらしい。宇喜多直家も不服そうに眉をひそめているが、そう見せてすべて手の内かもしれない。

 

さらには瀬戸内海にある能島村上家の能島城も落城寸前。北九州への侵攻は失敗したものの、毛利家は影響圏をさらに拡大します。

この年は全国的に戦が勃発しました。毛利家にかぎらず、各地の大名家は小勢力を吸収して、徐々に力をつけていきました。

 

さらに東を見ると、織田信長が近江の六角家を下し、その本拠・観音寺城を攻略しています。そのまま畿内へ入る勢いで、上洛も間近です。

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いっぽう四国でも土佐統一をねらう長宗我部元親が領地を拡大。本山家を攻略するなど、周辺勢力を傘下に加えていきます。

 

状況は刻一刻と変わっていきます。三浦家もこの流れをただ傍観していては出遅れ、手遅れとなってしまう。勢力拡大を急がねばなりません。

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※この流れどおりなら大勢力に飲まれる側のはずだが。乗るしかない このビッグウェーブに。

 


 

さて、牧国信と牧良長の兄弟は三浦家が動き出して以来、三村家の領内を侵攻すべく、ひたすら「青田刈り」を行っています。

彼らは交代で有漢の地に駐留。三村兵を脅かす任務をこなし、その警戒のために、少しずつ三村兵は消耗していました。

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※これはチート的な攻略法のひとつである。やっていることは『三浦家の野望』における陽動と同じ。(これについては、後でまとめます)

 

そして1568年7月。およそ1年にわたる働きが、ようやく実を結びました。

備中松山城下を守る2000の兵たちの腰兵糧が減り始めていたのです。

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※城下に布陣する部隊の腰兵糧は、補給できる間、120日分あるはずである。上野隆徳隊の腰兵糧は118日分となり、減少しはじめていることがわかる。ようやくここまで来た……。

 

備中松山城内に残る兵糧も、のこりわずかということです。三村家の情報を確認すると、やはり厳しい状況におかれていることがわかります。

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※牧兄弟の手によって、備中松山城はみごとに干上がった。彼らに残された兵糧はわずか15と悲惨な状況。

 

備中松山城の兵糧が空になったことで目標は達成です。浦上家に援軍を要請するのは、この時と決めていました。

室津城攻略の傷が癒えているかが気になりますが、兵を出すための米は十分に保持しています。兵力も備中松山城を攻めるには不足はないはずです。

 

ここにいたり、三浦家は出陣の決断をします。現在は7月。米の収穫がある9月が近いため、時間をかけるわけにはいきません。三村家に兵糧を持たせないよう、その前に叩こうと決めたのです。

7月末。三浦貞広は叔父の貞盛、牧良長を副将として、1300の兵をひきいて出陣。備中松山城へと兵を進めます。

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※しかし、三村家の兵数は2000。兵数でも負けており、完全に援軍だよりの出陣である。

 

さらに浦上家に援軍要請の使者を走らせました。

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※援軍要請には40の信用が必要。ただ、同盟相手は信用が20未満にならないため、40の時に要請するとじっさいに消費されるのは20である。20の信用を得るための工作にかかった金銭は1200以上。援軍は出るときと出ないときがあり、出てくれなければ信用だけ失ってしまう。

 

 

しかし、浦上家も毛利家と同盟を結ぶ立場。これに応じれば、毛利家にとって同盟国の敵国となってしまいます。

あらかに浦上側に負担の大きい援軍となりますが、この援軍がなければ三浦家に勝利はありません。

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※目をそむけ何かを考えているような盟友・浦上宗景。この要請をうけいれて、備前の便利屋となってしまうのだろうか。

 

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