【本山親茂の野望】その1 因縁の果て

1565年5月。本山家は、茂辰が没した影響をものともせず、各地で島津、武田、そして浦上と3方を相手にした戦いを繰り広げていました。

motoyama3_1_1※中国地方の攻略軍である。先々代・本山茂宗が浦上領・備中高松城を攻略中。

親茂は茂辰の遺志を継ぎ、本山家を裏切った浦上家への攻撃を重視。現在も侵攻中の、中国地方への攻撃の手を強めました。1565年5月、親茂は自ら出陣するため、溜まっていた伝授技能をいくらか消費(電光石火、背水、策士を取得)し、備えました。

同10月、親茂は居城・朝倉城から浦上領へと出陣。

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※考えてみたら朝倉城は狭すぎるので、この戦が終わったら本城に移動しようと思った。

攻略軍の猛攻によって、当初10あった浦上家の城は次々と落城。攻略開始から7ヶ月目の12月になって、浦上家の勢力は本拠・備中高松城を残すのみとなりました。

この頃になると、浦上への従属交渉ができるようになりました。しかし、もちろん従属という選択はありません。興奮さめやらぬ親茂はあえて首級を挙げることにこだわり、茂宗とともに浦上政宗の居城、備中松山城へと攻め入ります。

 

1566年1月、備中松山城下で本山茂宗の部隊が浦上政宗隊を撃破。浦上政宗は乱戦の中、捕縛されました。

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※「親茂……この政宗をとらえて、さぞや得意顔であろうな……」 そうつぶやいた浦上政宗に、親茂は切腹を迫る。

motoyama3_1_6※「野望も、ここまでか……」 ついに政宗の首をあげた。だが、姫は帰ってこなかった…。

浦上政宗が処断され、浦上家中は騒然。そして、浦上家は宇喜多直家が継ぎました。

しかし、完全に城を包囲された浦上家、もとい、宇喜多家には為す術もなく、備中松山城は城門が破壊され、落城します。

motoyama3_1_7※やはり黒幕は宇喜多直家だったということか。しかし、こんな状況で家督を押し付けられる直家も災難である。というか、むしろ自分に責があると言い張る忠臣かもしれないとさえ思えるが、そう思わせる作戦かもしれない。

1566年2月、宇喜多家は滅亡しました。

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こうして、さんざん宇喜多直家の手のひらの上で踊らされた本山家と浦上家との因縁は、1年のうちに幕を閉じたのでした。

motoyama3_1_20※この戦を経て、茂宗は60歳にしてついに名将と呼ばれるようになった。

 


 

一方。

---親茂が出陣しようと思った1565年5月、近江では音羽城攻めの最中。音羽城下では本山軍と、城を守る武田・朝倉の連合軍とで、熾烈な攻防戦が起きていました。

そんな中、城攻めの順番待ちをしている兵の背後に猛烈な勢いで大軍が迫ってきました。馬場信春率いる武田騎馬軍団です。これにより本山軍は背後を突かれ、危うい状況となりました。

馬場信春急襲
※馬場信春は武田四天王の一角である。

この状況を打破すべく、城攻めの中心となっていた親茂直轄の将、雑賀城主・鈴木左太夫はこの地で大会戦を行い、武田との決着をつける決断をしました。

本山軍20071VS武田・朝倉連合軍19909の大会戦が幕を開けました。

 

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