茂辰は神辺城の手前、深津の地で大会戦を開き、毛利家との雌雄を決することにしました。
川を挟んだ会戦です。本山軍は速やかに渡河。東西に部隊を分け、手薄な西側の部隊を撃破すると、そのまま東側へと押し寄せます。毛利家は、毛利一族が不在、さらに武器も揃っておらず、本山軍にいいようにあしらわれます。
最後には敵の大将・本城常光の部隊を包囲して撃破。大会戦に勝利しました。
※槍・弓の扱いに長けた本山の兵は勝負強さを発揮。毛利との決戦を制した。
大会戦の翌7月、村上軍団の攻略目標、賀儀城が降伏。神辺城も決戦後の兵力不足で、茂辰の強行に耐え切れずに落城しました。これにより、ついに本山軍は中国地方の上陸を果たしました。
しかし一方で、吉田郡山城を攻略中に生え抜きの将、横山友隆が戦死。更に元就に捕らえられた安芸国虎が毛利家に寝返るなど、宿将が次々に脱落して苦戦を強いられていました。
※安芸国虎は10年来の家臣だったが、本山家から離れた。それにしても、妙に毛利家に馴染んでおり、腹立たしい。
そんな折、展開を一変する事件が起きました。毛利元就の次男、吉川元春が本山家に投降したのです。
※安芸国虎とのトレードでやってきた元春は、さっそく本山家に忠誠を誓っている。
これにより毛利家は二本の矢になってしまって、勢いを喪失。これを機に毛利家は衰退していきました。
逆に本山家はどさくさに紛れて紀伊の鈴木家まで攻略。1564年、茂辰は力をつけたという理由で、勝手に左大臣を名乗ってしまいました。
更に浦上家と婚姻同盟を結ぶことに成功、支配基板を安定させました。
結局、そうこうしているうちに反島津連合は結成から3年が経過し、解散してしまいました。
※と言っても、最終的には島津・毛利・武田に加え、織田・浅井・上杉・本願寺・朝倉まで親島津連合に加入。その様相は完全に反本山連合となっていた……。
この頃になると、すでに毛利家も残り1城。いよいよ島津との戦いが近づいてきました。