【本山茂辰の野望】その12 潮流、そのひとしずく

左大臣を名乗った茂辰は、東西に憂を抱えながらも、国力は日本一となっていました。

motoyama2_12_1※人口は200万と、2位の島津家に50万の差をつけた。

いよいよ島津との決戦か、という時に、従属勢力・六角家から援軍要請が来ました。居城、観音寺城が武田家に攻められているようです。

援軍に駆けつけましたが、既に城は包囲状態、すさまじい武田信玄の気迫に押され、守りきれそうにありません。

motoyama2_12_2※武田信玄は超本気であった。自ら12000の兵を率いて城攻めに参加。上洛を目指しているのだと思うが、強すぎる。本当に勘弁して欲しい。

一方、本願寺・長島城を攻めている三好義賢軍団は、長宗我部元親に遭遇。いつの間にか浦上家を抜けていたと思ったら、今度は一向一揆にその身を捧げることにしたようです。

motoyama2_12_3※自分の才能を存分に発揮できる環境に身をおくのは幸せなことである。

1565年1月、茂辰は吉川元春、荒木村重、宇都宮豊綱らを引き連れて、島津領・周防への遠征に乗り出します。

その遠征のさなか、浦上家から使者が本山城へと到着。なんと、浦上家が本山家との婚姻同盟を一方的に破棄してきました。

motoyama2_12_4※ふざけた大名です。宇喜多直家にそそのかされたとか、そういう言い訳は通用しません。浦上政宗、討ち果たさねばなりません。ちなみに姫の杏は、六角家からの養女。

これにより、内側に敵を作る結果となりました。敵が内外に介在する心労のためか、茂辰は病の床に伏しました。

 

そして---。

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1565年3月。本山茂辰、死亡。享年41。

そのままぽっくりと逝ってしまいました。

家督を継いだのはおよそ八年前。奇しくも、父・茂宗が四国の統一を成し遂げるまでにかけた期間と同じくらいの時期の早世でした。


 

天下統一の野心に燃え、その生涯を捧げた本山茂辰の野望はこれでおしまいです。その夢を掴み取ることはできませんでしたが、ほぼ史実通りの年齢での病死でしたね。ちなみに茂宗はまだ健在です。

ここまで読んでいただいた方がいらっしゃいましたら、お疲れさまでした&ありがとうございました。

 

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