本山家の敵となった足利将軍家(ムロマチバクフ)。その攻略を始める前に、将軍の居る二条御所の南西、石山御坊に陣取った将軍家との同盟勢力である本願寺家を排除することを決めました。
石山御坊を守るのは11000の兵と、あの下間頼廉です。簡単には落城しないのですが、本山家の兵力を動員して頼廉部隊を蹂躙しました。
※坊主を取り囲むの図。いかに下間頼廉といえども、これだけの兵を相手にすることはできない。
頼廉率いる門徒衆は壊滅。石山御坊は本山家によって攻略されました。これにより背後の憂いを断った本山家は、足利将軍家への攻撃を開始します。
1561年8月、本山茂辰は西園寺実充に二条御所の攻略を指示。直轄領からご隠居、本山茂宗らが出陣し、その手前にある槇島城の攻略を目指します。
周辺にはまだ武田、長野工藤ら、将軍家に与する勢力が残っており、援軍が次々と到着しました。しかし、本山軍団はそれをことごとく撃破。本山茂宗は槇島城を攻略すると、一気に二条御所まで北上しました。
茂宗はその勢いのまま足利義輝の率いる部隊を撃破すると、二条御所を包囲しました。
※茂宗は血が騒ぎ、ついつい城下を燃やしてしまった。岡豊城攻めを思い出してしまったのだろう。京の人々は大迷惑である。
1562年1月、ついに14代続いた足利将軍家は本山家によって滅亡に追い込まれ、その歴史を終えました。こうして本山家の武力による上洛は達成され、足利義輝は京から追放されました。
本山家が上洛を達した直後、本山家を支え続けた宿将・土居清宗が死亡しました。老齢ながらも多くの戦に出陣した清宗は、本山家を代表する将でした。
※享年79歳。いつお迎えがくるかハラハラしていたが、ついに力尽きた。もしかすると、上洛までは何とか見届けたかったのかもしれない。
足利将軍家の攻略に夢中になっている裏では、九州で島津家が台頭。兵力数、鉄砲数は本山家をしのぎ、全国一位となっていました。
※島津は九州統一間近。島津家は戦闘能力がずば抜けており、本山家が勝てるかはちょっと不安である。
これまで九州は見て見ぬふりをしていましたが、こうなるとさすがに無視はできません。事態を重く見た(というか連合を結成してみたかった)茂辰は、本山家を盟主とした対島津連合の結成を画策。大内、浦上がこれに乗り、反島津連合が結成されました。
※実際には島津・毛利・武田による本山包囲網みたいになってる。