1560年5月、本山家は毛利家攻略に失敗。一つの城を攻め落とすこともできずに兵の撤退を決めました。
※神辺城は本山家を追放された長宗我部親吉が守っていた。城門を破壊するところまで追い詰めながらも、毛利の援軍に阻まれて落としきれなかった。いまごろ、親吉は毛利家中で名将と讃えられていることだろう。
ひとまず一度体制を立てなおして、畿内の攻略に集中します。
茂辰が天下に覇をとなえるために、最終的には足利将軍家を京から追い払う必要がありますが、現在は大義名分がありません。さすがに唐突に将軍家へと槍を突き立てるのは気が引けます。
そこで、ひとまず御所後方の近江に勢力を持つ六角家を従属させ、プレッシャーを与えながら様子をうかがうことにしました。
今回の攻略戦の本丸は三好家です。三好家の中には不満を抱いている武将がちらほらといたので、その懐柔工作を行い、攻略の準備を進めました。そして1560年8月ごろ、本山家は三好家攻略の兵を出陣しました。
三好家は本願寺、鈴木、北畠ら近畿の各勢力と結託し、本山家に対抗。本山軍は次々と送られてくる援軍に苦戦を強いられますが、よく戦いこれを撃破しました。
また、懐柔していた三好家臣たちが本山家へと寝返ったり戦闘をサボったりして、三好家の城は次々と落城していきました。
※城に所属している武将に寝返りの約束をしてから包囲すると、その武将が城内から抜けだして投降する。効果は微妙。
1561年3月、三好家は滅亡。ついに目下、最大の障壁だった三好家が茂辰にその膝を屈したのです。
※ついでに細川家、筒井家も攻め落とした。細川家はさぞ悔しいことだろう。そして足利家はこの挑発に耐えられるのか。
三好家臣は本山家に降りましたが、完全に従っているわけではありません。ひとまず大和に軍団を新設し、その軍団長には三好義賢を据えて彼らの不満を押さえこむことにしました。
特に松永久秀の態度は目に余るものがありましたが、三好家当主・三好長慶から没収した三好粉吹という茶碗をくれてやると安定しました。尻尾をふるようになるのも時間の問題です。
※松永久秀ともなると、自分の才能を安売りしない。投降しても、しばらくは自分の才能を隠して過ごす。何か失敗すると、「まぁ、本当の儂はこんなものではないがな……」とか言ってごまかしてそうである。
時を同じくして、従属させた六角家から防衛援軍の要請がありました。足利将軍家が六角家の支配している伊賀上野城へと侵攻を始めたのです。茂辰は援軍の要請を承諾。防衛の兵を出しました。
更に足利麾下・細川藤孝、森田浄雲らの兵が本山家が占領した筒井城へと侵攻。これにより、足利将軍家と本山家の対立は決定的となりました。