【本山茂辰の野望】その5 反逆の荒木村重

1559年5月、播磨・丹波の攻略に成功した本山茂辰は、その一帯を統治する軍団を新たに編成。宿将・西園寺実充を軍団長に据え、三好討伐の任を与えました。

motoyama2_5_1※西園寺実充は西園寺15将の裏ボス的存在である。

その西園寺軍団に、早速試練の時が訪れます。軍団長に任じられたまさにその月、軍団最東端の八上城に向けて三好家が進攻してきました。

初め敵兵は2500という情報でしたが、三好は次々と増援を送り、結果的に10000程となりました。

motoyama2_5_2※新たに家臣になった赤鬼こと赤井直正が大慌てで敵兵数を報告してくれた。この戦は、三好の全城から兵をかき集めた総力戦である。茂辰の無作法に対する長慶、怒りの戦争なのかもしれない。

西園寺軍団の実兵力は2000くらいで、これでは守りきれません。茂辰は播磨攻略に使用した3200の残兵を八上城に駐屯。その防衛につかせます。更に、岸和田城主・十河一存が出陣したことで手薄になった岸和田城へと阿波・讃岐から兵を出陣しました。これに加えて、別の三好領への陽動部隊も出陣。

さて、西園寺軍団に残兵3200の兵力を足しても、八上城を守り切ることはできません。しかし、敵の主力である十河一存の部隊には荒木村重が所属しています。その荒木村重は、城主を解任されたことで三好に対する不満は爆発寸前でした。

そこで村重に戦場での寝返り交渉を持ちかけ、交渉に成功します。

motoyama2_5_3※村重は今まで三好への不満から何度も本山家との不戦交渉に乗り、三好家中にありながら本山家を助け、本山の将と言ってもいいくらいの活躍っぷりだった。寝返った後で本山茂辰に使いこなせるのか不安は残るが、今はそうも言っていられない。

八上城下の戦いで、村重は本山茂宗の部隊に合流。これにより十河の部隊は、兵力の半数近くが寝返る結果となりました。しかし三好長慶・三好義賢に挟撃を受けたため、本山家は本山4713VS三好8100で防衛会戦を展開。

しかし敗北。※毎度のことなので画像は省略。

本山勢は全滅しましたが、長慶の部隊を壊滅、敵戦力を大幅に削り取ることができました。

motoyama2_5_6※十河一存はそのまま帰っていった。しかし、本山茂宗は全滅しても捕まらないし討ち死にしない。悪運が強いのか、会戦での討ち死にがそもそも存在しないのか。

その後、三好領内への陽動作戦が功を奏し、三好勢は八上城から撤退。包囲が解かれます。

八上城に釘付けに成っていた隙を突いて本山藍の部隊が岸和田城を攻略。ついに本山家は畿内にまで勢力を伸ばすことに成功しました。

motoyama2_5_10※ついでに三好家本拠、十市城への線上にある高屋城も攻略。河内畠山家は、本山-三好の争いのとばっちりを受けて滅亡してしまった。

1559年12月、調子に乗った茂辰は三好攻略の完了を待たず、伊予の村上武吉軍団に毛利攻めを指示しました。この月、中国地方で少し動きがあり、盟友・浦上家の津山城を毛利家が攻め落としたことによる嫌悪感にもよるものです。

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※毛利5万に比べ、村上武吉軍団3万である。しかも毛利の将は化け物揃い。大殿の無茶な注文に対する武吉のため息が聞こえてきそうだ。

三好、毛利との、二方面の攻略戦となりました。

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