【本山茂辰の野望】その3 慢心の代償

洲本城に残った大西頼武は、十河、荒木隊が不戦を決め込むのを見届け、僅かな守備兵を率いて城下に出陣してきました。本山・洲本城攻略軍は難なくこれを蹴散らすと、洲本城を包囲、強行します。

強行を開始するまさにその時、三好方の援軍、下間頼廉が洲本城に到着し、海から攻略軍への攻撃を開始しました。

motoyama2_2_10※海坊主かと思ったら頼廉だった。なんとその頼廉、兵力6000くらいと思っていたが実際は8200。 誤差ってレベルじゃありません。これには兵も苦笑い。

さすがに銃と騎馬で武装した下間頼廉。攻略軍を率いる歴戦の猛将・本山茂宗に一歩も引けを取りません。というか茂宗が相当押されており、普通に戦っては勝ち目がありません。更に不戦の約束を結び洲本城西部に布陣している村重との不戦期間が終わり、再び敵となったことで挟撃を受ける危険性もありました。

そこで1558年2月、洲本城下において本山茂宗率いる攻略軍5567VS頼廉7553とで会戦を挑みました。

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※ふんっ頼廉の小僧めになぞ負けるものか!

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※頼廉には勝てなかったよ……。

結果は本山家の敗北。この会戦により本山茂宗を始め、洲本城攻略軍のほぼ全てが壊滅しました(一部は荒木村重の相手をしていた)。しかし、頼廉は茂宗の迫力に押されたのか、兵を撤退。石山御坊へと帰城していきました。

会戦後になり、その辺をうろうろしていた十河一存が不戦状態を解消。洲本城下に布陣します。

翌3月になり本山藍らの後詰7000の兵が到着しました。そこに鈴木家の雑賀城でご飯を食べていた陽動部隊の安芸国虎1900が合流。洲本城を守る十河一存を兵力差で押し切り、撃退に成功しました。これで洲本城の落城は目前です。

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※洲本城攻めの様子。十河一存474の被害に対し、こちらは462、262、206と倍近い被害である。挟撃できていないのも原因だと思うが、城守備の補正とか武器の差も影響があるのかもしれない。

更に東土佐からの援軍も続々と到着し、岸和田城周辺に布陣します。三好の兵は岸和田城に集まり、洲本城に援軍を送ることができません。

援軍の期待できない洲本城は本山家の強行に屈して降伏。本山家は作戦が破綻しながらもなんとか洲本城の攻略に成功し、一応の勝利を得ました。

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※本山藍は鳥取旅行から帰ってきたばかりなのだが、すぐに後詰としてかけつけてくれた。

しかし、無様な攻略戦となった洲本城の戦いは多くの兵の犠牲を出し、茂辰に戦の難しさを認識させる戦いともなりました。それでも兵の全滅による領地の民忠低下は思ったほどではなかったので、茂辰はほっと胸をなでおろしたのでした。

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