【三浦貞広の野望3】その2 四国へ

1575年8月。三浦貞広が天神山城に本拠を移したことで、多くの来客と接することになりました。その中には商人司の姿も。暗に茶器の購入をすすめられます。


※三浦貞広を煽りにかかる商人司。領地が広いと訪問者が多くなる。ゲスっぽい顔が浮かぶような台詞だが、これは茶器を手に入れると金3000をもらえるお役目(お使いイベント)である。

 

 

 

しかし、いまは茶器どころではありません。そんなことよりも、四国から1万をゆうに超える三好軍が三浦領に侵攻中。彼らを撃退しなければなりません。

三浦家に兵はあります。問題は兵を動かすための兵糧がないことです。しかし三好家が瀬戸内海を渡っている間に9月へ突入。収穫期をむかえ、兵糧が手に入りました。

その米をたよりに領内から兵を動員。備中松山城をあずけていた延原景能を派兵し、まずは下津井の防衛に成功。


※盲目の大将・香西佳清はほうほうの体で逃げ帰ったのだった

 

さらに三浦貞広は長船城で三好をかえりうちにします。


※戦は終わった

三浦家は意外にも簡単に防衛したのでした。

 

一方の三好家は、この敗戦により外敵に攻められる隙をつくることになります。のちのち東の鈴木家、西の長宗我部家から領地を狙われることになりました。

 

三浦貞広も戦に勝った勢いで一気に勝負をしかけます。天霧城主・香川之景への密談をひきつぎ。みずから之景へ説得をこころみます。


※叛心が100になれば城ごと寝返らせる”謀反”をもちかけれる。香川之景の叛心は40で増加が月に10ずつなので、6ヶ月後には謀反させられそうだ。もはや三好家に縋っていても未来はないので、三浦家の一員になるしかないぞ。

 

家臣の不満解消にもとりかかります。家宝を与える他、牧良長を譜代衆に任命し、さらに岡山城主に。ついで三浦貞盛を三石城主に任命。こうして長年、三浦家に仕えてきた三浦家重臣たちは、ようやく城持ちになっていったのでした。


※城主がいる拠点は兵が強くなるなどメリットも多いが、主家と米の共有ができなくなるなど不安要素も多い。配下に城を任せるかは悩ましいが、やはり雰囲気作りのためにも城主にはしたい。

 


 

信長包囲網を敷いていた足利家滅亡の報が届いたのは、それからおよそ3ヶ月後のことです。


※二条御所陥落

 

1576年2月。織田信長によって京を追われた足利義昭は毛利家を頼り、中国に落ち延びます。義昭はそこで新たな信長包囲網を画策。全国の大名を糾合し、反信長連合が結成されました。いわゆる“第三次信長包囲網”です。


※「そなたらが義を、誠を知る者であれば、今こそ立ち上がれ!」厳島神社(?)で檄を飛ばす足利義昭。滅亡と同時に落ち延び、即座に連合を結成する。仕事のはやい将軍である。

 

しかし足利義昭がどこにいるのかというと

本州の端で小姓をしていました。


※毛利家での待遇はよくないらしく、内藤隆春家で小姓として働かされている……

 

ここに毛利家を盟主とした反織田連合が結成されます。

三浦家はこの連合を静観。旗色を明白にせず、ひとまず毛利との同盟を継続、どちらの連合にも加入しない状態がつづきました。

 


 

1576年4月。長宗我部元親が行動を開始。本格的に三好領へと侵攻をはじめます。白地城を攻略し、侵攻を続けます。


※その能力で他者を圧倒する長宗我部元親。

 

おくれること2ヶ月、三浦貞広が香川之景への密談を完了。叛心が100になります。長宗我部が攻略してしまう前に、いそいで謀反をもちかけます。

謀反は成功。香川之景は城ごと三浦家に降ることになります。讃岐天霧城は三浦家の影響下に入りました。


※これより、我らは貞広様にお仕えいたします!


 

三好家の崩壊は止まりません。東を見れば鈴木家が三好領・淡路の洲本城を攻略。さらに西に進み、勝瑞城の攻略にとりかかっていました。

さらには南からは大友家が北上。三好家は東西南の三方面から攻撃をうけ、存亡の危機をむかえていました。


※九州を追われた大友家まで領地拡大の好機と見て出陣。四国は慌ただしくなった。

 

この流れを見逃すことはできません。三浦家も動きます。その後、各勢力によって切り取られ、残る三好家の城は引田城、十河城の2城です。

三浦家が狙うのは讃岐の主城・十河城。一気に讃岐の獲得にかかります。

長船城の牧国信ら1万の兵が出陣。攻略に向かいます。

三浦家が十河城の包囲をはじめるころ、鈴木家が引田城を攻略します。十河城は三好家最後の城になりました。どうやら三好家にとどめをさすのは三浦家になりそうです。


※兵糧はない中、包囲を続ける三浦軍。精神論で乗り切るしかない。

 

1576年12月。十河城は2ヶ月の包囲ののちに落城。かつて権勢を誇った三好家はこうして滅亡したのでした。

 

城12に対して武将21人と、三浦家はわりと人材不足の状況でしたが、三好の旧臣たち十河存保、三好政康らを登用。当主・三好義継まで登用しました。三好家を吸収したことで武将は31人になります。これで不足はかなり解消されました。

結果として、三浦家は3人に1人が三好家の武将という状況となりました。

 

このとき三好康長の所有していた家宝・三日月を没収。三浦貞広の手に渡ります。


※三日月は一等級の茶道具である。

そして商人司のお役目が達成されたのでした。


※商人司もまさか茶器を買わない当主から三日月を見せられることになるとは思っていなかっただろう。ミッションは達成され、金3000を受け取った。

 


 

こうして三浦家の領地拡大は成功しました。しかし、信長包囲網が結成された今、毛利と同盟をしているという状況を保ったままというわけにはいきません。じっさい毛利との戦は、さし迫っていました。


※1577年2月時点の地図。このとき、三浦家の兵数48000、毛利家の兵は137000。

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