【三浦貞広の野望3】その3 大国・毛利との絶縁

1577年4月、三浦貞広は能登守を称することになりました。


※所詮は、名ばかりの能登守となった三浦貞広

この月、大友宗麟の命をうけた立花道雪が三浦領・十河城へと侵攻。高橋紹運とともに兵をすすめます。四国での生き残りをかけて、守りを捨てて讃岐の覇権を奪いにかかってきたのです。

 

 

それを城下で撃退しました。


※立花道雪はまごうことなき名将。上野隆徳は「打ち破ったぞ!」と嬉しそうだ

そして、この侵攻を察知した長宗我部元親が動きます。大友家は手薄になったわずかな領地を守りきれず滅亡しました。


 

大友家の侵攻をふせぎきった三浦家は、つづいて別所領・津山城の攻略に着手します。この時点で兵数は三浦50000に対して別所6300。別所家は反信長連合に加入していることもあって討伐の対象です。

これまで三浦家を苦しめてきた別所長治ですが、三浦の大軍をまえに壊滅。津山城は強行攻撃に耐えきれず陥落します。別所長治の首級をあげ、三浦家は美作を統一しました。


※別所を囲む三浦軍


※「我が無念……いずれ誰かが晴らしてくれるでしょう」

 

美作、備前、備中の一部を支配した三浦貞広はその名声を天下に轟かせます。徳川家康に肩を並べるほどの名声を手にしました。


※名声が上がると配下武将の忠誠が上がるなどメリットがある。ただ、あまり意識することがない。活かしきれなかった機能といった感じ。

 

三浦家の勢いはどこまで続くか。つぎは築城か、各城の改修かというところ。

しかしこの時、重要なことが起きていました。今まで動かなかった織田家が重い腰を上げたのです。織田家は姫路城の攻略に着手。赤松家を滅亡に追い込んでいました。


※西国を攻略する明智光秀。気がつくと、姫路城は織田領になっている。

これで三浦家は織田家と領地を接しました。いま三浦家は毛利家と同盟をしていますが、縛りにより、毛利家との同盟は継続しない方針にきりかえです。

 


 

毛利家の兵力15万に対して、三浦家の兵力は5万。毛利家は同盟が切れると同時に攻めてくるでしょう。毛利との同盟の残り期間は三ヶ月。この三ヶ月の間に戦の準備を整えます。

 

三浦家の状況としては、三好、別所をとりこむことができたので戦力は以前よりも充実しています。これまで各城の改修をすすめてきました。築城はまったく進みませんでした。

 

三浦家の各城

城名(城主、城代):城の耐久値◯◯

中国地方

  • 天神山城(三浦貞広):耐久11000
  • 津山城(牧国信):耐久6500
  • 岡山城(牧良長):耐久5500
  • 長船城(中村則治):耐久1000
  • 三石城(三浦貞盛):耐久2000
  • 西川城(大西頼武):耐久6000
  • 両宮山城(原田貞佐):耐久5500
  • 高田城(花房正幸):耐久10000
  • 備中松山城(延原景能):耐久14000
  • 大佐山城(衣笠範景):耐久2000
  • 正霊山城(石川久智):耐久2000
  • 下津井城(三村元範):耐久2000

四国(讃岐)

  • 十河城(十河存保):耐久3500
  • 天霧城(香川之景):耐久6000

前線にも耐久値のひくい城があります。正霊山城は石川久智家の所領なので改修の命令ができなかった事情があります。そして山奥に建てた大佐山城(画像左上)は道の整備をまったくしていない囮用の城です。ここに敵をひきつければ、敵の足並みをあるていど乱せるはずです。

 

毛利家がどこに攻めてくるのか。最前線にある正霊山城は、ある程度もうあきらめています。攻略後はそのまま東に進むと考えられるので、岡山城での激戦が予想されます。

鍵は合戦です。年一回の縛りとした『合戦』コマンド。どこで発動するかが問題です。

高田城、備中松山城など、山城での防衛合戦なら少ない被害で数倍の兵を撃退することも簡単です。あるいは大合戦もありますが、毛利家の武将は優秀。武将の能力差が大きく、開戦する場合はこちらにも被害が見込まれます。

あまり兵力差がない場合、基本的にマップ戦闘で様子をみるつもりです。挟撃で撃退するのです。

 


 

ひとまず、戦力差を埋めるために、政策・『家臣集住』と『軍役衆配備』を実行します。


※『家臣集住』は常備兵が4割、『軍役衆配備』は常備兵が2割増加する。

 

これにより、三浦家の兵数は58000→69000にまで増加しました。あとは、ひたすら城の改修です。少しでも各城の防御能力を高めます。

また三浦貞広は決戦を前にして朝廷に奏請。『美作守』を名乗りました。覚悟を新たにします。


※ついに美作守に。いざもらうとなると、やはり「……所詮名ばかりのものだがな」とか言ってしまっていた

 

1578年3月。毛利との同盟期間が満了。

同月、織田へ連合加盟の使者を出します。これで毛利との対立は避けられないものとなりました。


※敵対連合に入ることで、毛利家とは『停戦』『和睦』といったコマンドは使えなくなる。まさに背水の陣。

 

それから間もなく。さっそく毛利侵攻の報告が舞い込みます。毛利家は三浦家の連合加入を待たず、三浦領へと兵を進めてきたのです。

毛利侵攻軍の規模に関する報告は次のようなものでした。

毛利軍

(侵攻先):(兵数)

  • 備中松山城:28100
  • 正霊山城:7800
  • 大佐山城:7300
  • 高田城:23400

総兵数:66600

 

どうやら手近な城から攻めることにしたようです。毛利家が差し向けた兵は、三浦家の総兵力とほぼ同数。毛利軍は手始めに、正霊山城の包囲しはじめました。

 

三浦貞広はこれを受けて、天神山城から出陣。さらに美作、備中、備前の各城から兵を出します。備中高松城を攻撃することによる陽動をこころみます。城下に集まった部隊に挟撃をしかければ毛利軍を撃退することもできるかもしれません。

 

織田家への援軍要請も考えましたが、援軍は今回攻められた三浦領・最前線の城には届きません。長宗我部家も同じです。よって、ここは三浦家の独力で守る必要があります。

中国地方の他に、四国・十河城にはそれなりの兵がいますが、そこでは鈴木家が虎視眈々と侵攻の機会をうかがっています。鈴木家は長宗我部と同盟していて、長宗我部家からの援軍による防衛は期待できません。したがって十河城から兵は出せません。支城の天霧城からは出陣しました。

 

三浦軍

  • 出陣:55300
  • 待機(十河城、高田城の兵):およそ1万

総兵力:およそ65300

 

兵数は互角ですが、武将の能力差がきびしい。三浦と毛利との戦力差は大きく戦況によってはいくつかの城は諦めなければならないかもしれません。

三浦軍が備中高松城へと攻撃をしかけると、毛利軍は予想を越える軍勢を備中高松にあつめてきました。これなら挟撃によってあるていど対抗できるか。

しかし、両軍が備中高松城に集結しはじめたころでした。

 

毛利領内から後詰めが出陣します。

毛利軍(後詰)

(侵攻先):(兵数)

  • 正霊山城:4200
  • 備中松山城:13400
  • 津山城:3800
  • 三石城:4800

後詰:26200

総兵数:92800

 

これで三浦軍と毛利軍の戦力差がさらに開きました。

そんななか、毛利軍による高田城の包囲が始まります。大佐山城から後詰を出陣しますが、高田城を守りきるには兵が足りません。さらなる増援が必要です。


※高田城が包囲されてしまった

しかし三浦軍の大半は備中高松城への陽動攻撃中。この手をゆるめれば、周辺の城は包囲され、たちまち陥落してしまうでしょう。

 

急がなければ高田城の救援は不可能。毛利軍は、まだ完全には集合していません。備中高松城においては、兵数ではこちらが勝っています。毛利の各領地からは後詰めが迫っています。

決断のときです。ここで三浦貞広は備中高松城の大合戦を発動しました。


※ここで合戦コマンドを使用した。三浦家の運命を左右する戦いがはじまろうとしていた。

 

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