☆未読の方は、まずはプロローグを読んだほうがいいかもしれません。
1569年9月。三浦貞広は領地拡大をめざし、美作・西川への築城準備をすすめます。
しかし三浦家の保有する資材は十分ではありません。築城には多くの資材と労力を必要とします。今の状況では、すぐに築城に着手することはできません。
※月収は1200。できるだけ早く築城したいが、なかなかに難しい。
収支の割合を考え、築城着手の目標は3ヶ月後、1569年12月としました。
築城のための資金をつくるためには、できるだけ節約をしなければなりません。まず、他家との外交を切り上げます。敵にまわすことができない毛利・浦上家との外交を、最低限の工作をして中断しました。
※外交工作は費用が600と負担が大きい。金に困っている三浦家は、毛利、浦上との外交をいったん打ち切ることで収支の安定をはかった。
また商人から鉄を購入。
※ギリギリの予算をやりくりし、鉄を買い揃えていく必要がある。
その一方で城下の開発をすすめます。高田城は三浦貞盛が、備中松山城は牧良長が主導して、内政にとりかかりました。
※投資の目的は武将の育成である。三浦家は武将の育成が急務。貞盛は政治59だが、はやく70くらいになってもらわなければならない。そうでなければ、武将を登用するにも一苦労なのだ(縛りのため)。
さて、築城には多くの労力を消費します。三浦領内で用意できる労力は6。築城に必要な労力は8なので、じつは現状では足りません。
そこで、政策“夫役強化”を採用します。労力を増やして一気に築城をします。
※“労力”とは内政とか建設工事に使う力のことである。労力は人口とともに増える。“夫役強化”を行うことで、三浦家の労力は9となる。兵は減る。
そして、予定の12月がやってきました。貞広は、ここで商人に全ての米を売却。4000の金にしました。これで兵を出すことはできなくなりましたが、築城の資金には十分となります。
無理をして、ようやく築城に必要な資材がそろいました。
※兵糧を全て売りはらって築城の費用を捻出した。今月からはわずかな雑穀と水だけで冬を越さねばならない。正気の沙汰じゃない。
三浦家は西川の地に築城をはじめます。普請は三浦貞広の叔父・貞盛が担うことになりました。
築城をするために、三浦領内の投資活動はすべて中止。すべての労力を築城に注ぎます。
※牧良長は「城下町の発展は期待できませぬ」と警告。だが西川城は両宮山へ進出するための拠点なので問題はない。もっとも小規模な城の建設でも、貞盛が担当した場合、かかる期間はおよそ100日。3ヶ月と10日である。
寒空の下、三浦貞盛が西川城の築城をはじめました。
さらにこの月、毛利家との同盟期間が切れます。これに対し、三浦家はひとまず援軍を要請。両家は同盟関係ではなくなりましたが、停戦状態になりました。
西川城の工事が終わるまで、領内の開発はできません。落成まで待つことになります。
4ヶ月後、1570年4月。三浦貞盛は無事に西川城を築城。ことは順調に進みます。
※あらたに建てられた西川城(砦?)の城代となった旧三村家臣・石川久式。貞広に対してはまったく忠誠心がない。すこしでも不満が解消されるのでは、という期待もむなしく、忠誠は上がらなかった。
さらに2ヶ月後。翌月には浦上家との同盟が切れます。浦上家に対しても、毛利家と同じように援軍の要請をしました。収支が安定したら改めて同盟をするつもりです。
――しかし、ここで思いもよらぬ事が起きます。
1570年8月。同盟延長の使者を出さなかったことで、浦上家は三浦家と断絶。敵対の態度をあきらかにしました。
※“関係を断った相手とは手を結ばない”毛利家はこうならなかったが、どうやら浦上宗景の怒りを買ったらしい。しばらく断絶が解消される見込みはない。
この断絶により、浦上家とは外交交渉ができなくなりました。停戦が終われば、いつ戦が始まってもおかしくない状態となったのです。
かろうじて援軍要請による停戦期間は残りました。しかし、8ヶ月後には停戦が終わります。それまでに、浦上家が侵攻してきた場合にそなえなければなりません。
美作周辺には4城を建てる予定でしたが、これでは間に合いません。攻略目標として浦上家を考えてはいましたが、関係を断つには早すぎです。
結局、貞広は両宮山の築城、津山城を支城で囲う築城の計画を撤回することになります。三浦家は攻略方針の変更を迫られたのです。
※8ヶ月では、すぐに攻められそうな両宮山に築城するのは厳しい。さっそくの外交ミスにより、あっけなく計画が破綻したのだった。