上杉景虎は武功をあげて会津新宮城代になりましたが、寄騎もおらずモブ家臣とともに孤独な城代生活を送っていました。
ひとまず城下の開発に着手。城代になると、自領にくわえて城の開発ができるようになります。
※“内政”や“普請”など城の開発ができるようになる。ただし出陣は大名の命令がないとできないなど権限は弱い。城主となれば出陣も自由。さらに“提案”することで大名に領地や寄騎(配下武将)を要求することができるようになるなど幅が広がるので、急いで昇進したいところ。
※“進出”では開発区画を広げることができる。とうぜん他の城とも地続きなので、このように他の城の区画とぶつかってしまうこともある。
しかし結局めんどくさくなって自領・直江津にこもって箱庭開発を続けることになったのでした。
※会津新宮城代となったが、領地は直江津のままだった。ちなみに、この“領地”は全国マップから独立していて一枚マップには収まっていない。
しかし、そんな怠慢な開発をしている場合ではない事態が訪れます。
1581年5月、衝撃の訃報が上杉領内に巡りました。領地の開発につとめる景虎の耳にもその報がとどきます。
上杉家当主・上杉謙信、死去。
そして上杉家は、有無をいわさず上杉景勝が継ぐことになりました。
とうぜん、景虎からすれば容認できません。
しかし、それから上杉景勝の動きは迅速でした。自らが上杉家当主であることを示すため、まもなく春日山城を占領。上杉景虎派は春日山城を追われました。いわゆる、『御館の乱』が始まったのです。
※「景勝様こそ、上杉の正しき当主! 北条の邪な野心、必ずや打ち破ってみせようぞ!」息巻いて不意打ちをしかける樋口(直江)兼続。
春日山城を追われた上杉景虎は、実家・北条家に援軍を要請しようと動きはじめたのでした。
※「私には……もう戻る場所などない。私の家を、居場所を掴んでみせる!」景虎は、城代として会津にいたこともあってか、わりと簡単に春日山城をとられてしまった。景虎の悲痛な覚悟は、まさに己の運命に向き合うものであった。
こうして景虎は、城主の身分をすっとばして山内上杉家の当主として独立することとなったのです。
状況確認
『御館の乱』が起きて上杉景虎が独立したので状況を確認してみます。
勢力図
上杉領の大部分は上杉景勝(竹に飛雀紋)が握りました。上杉景虎(九曜巴紋)の影響下にあるのは北条城など越後の一部と、上野の一部です。
※景虎が城代をしていた会津新宮城からも当たり前のように追い出されてしまった。
地図上の城の数をみても明らかですが、国力は景勝派の方が上です。単純に兵数でも3倍の差があるので、厳しい戦いになりそうです。
山内上杉家(景虎派)
※山内上杉家(景虎)。景虎に味方する武将の中には北条(きたじょう)高広もいて景虎派内ではエース格。そして景虎にたびたび無心をしていた鬼小島弥太郎、さらには雑太城代として佐渡に飛ばされていた上杉憲政もいるぞ! 兵数およそ13000。
上杉家(景勝派)
※上杉家(景勝)である。こうしてみると、樋口兼続がすでに権力を手中におさめているのがわかる。斎藤朝信、甘粕ら能力の高い武将が多い。拠点の数と武将の数は景虎派のおよそ5倍、兵数は46000ほど。
外交関係
上杉景虎は、北条氏康の実子です。その関係で北条家とは無期限の同盟を結んでいます。
いっぽう景勝派は、毛利家、本願寺と同盟を結んでいます。
武将の特性
上杉謙信から“関東管領“、“軍神”を、景勝が継ぎました。景虎はどちらも持っていません。
※景勝は関東管領を称しているし、軍神にもなった。使っている家紋で考えてみても正統性があるのは景勝の方だろう。もと山内上杉家当主・上杉憲政も景虎に味方しているが、景虎派は形からしてすでに敗北しているのだ。
このように、景虎は不利な状況にあります。正面をきって衝突すれば、兵力差でおしきられる気がします。
しかし、よく見ると景勝派の外交姿勢は“修好”。どうやら断絶していません。
両家には交渉の余地があるということです。
さらには景虎の居城となった北条城下に景勝が来訪。武家町に姿をあらわし、兵たちの鍛錬をして帰りました。これほどの状況で敵地に訪れるということは、この乱は景勝としても本意ではなかったのでしょう。
※景勝は「おぬしには借りがある」と、律儀に借りを返しに来た。
※このゲームでは、自領に訪れている武将をバッサリというわけにはいかない。しかし稽古中に事故があっても文句は言うまいな……。上杉景勝、読めぬ男。
景勝の行動に真意を悟った景虎は、発想の転換にでることにしました。
それは乱のきっかけとなった景勝派との和解、両派閥を存続させるというものです。つまり、景虎派と景勝派、たがいに独立を保ちながらも手を携える両上杉体制を目指すことにしたのです。
春日山城を追われてから1ヶ月後の6月、景虎は商人から家宝・「芦屋釜」を購入。景勝に贈り、交渉のきっかけとします。
※謙信公は、景虎と景勝が争うことを望んでいただろうか? ここで何者かの思惑に踊らされては、上杉家に未来はない。聡明な上杉景勝殿なら、この芦屋釜、受け取るのが得策とわかるはず……。
景勝はその芦屋釜を受け取りました。これによって景勝派の景虎派への姿勢は“信頼”となります。
これで、景勝派が景虎派の領地に攻めこむことはありません。ひとまず、即攻め滅ぼされるという心配はなくなりました。
※景勝は警戒心を露わにしながら、芦屋釜をたいへん嫌そうに受け取ったのだった。よくわからない状況になってきたが、ゲームではこういった立場も楽しめる。
景虎はみずから景勝派にむけた外交工作を開始。同盟関係を目指して信用の獲得に奔走します。
それから2ヶ月後、8月。景勝派に動きがありました。どうやら、二方面の攻略作戦を展開したようです。
攻略目標は、まず東、伊達領・米沢城。
※米沢城を舞台に、景勝派VS伊達・最上連合による大規模な戦いが起きた。
そして南、甲斐・武田家の海津城です。
景虎の背後を守る北条家の盟友・武田家が攻撃されたことで景虎派(というかプレイヤー)にはさらなる鬱憤がたまります。
1581年9月、景勝派うつべしの声におされた景虎は、ついに北条城から出陣。手はじめに北条城の軍勢3300を引きいて防衛のうすくなった柏崎城へと攻め入ったのでした。
こうして景虎のいだいた上杉両立の構想は脆くも打ちくだかれ、上杉家の家督をめぐる戦いが本格的に始まったのです。
※しょせん、争う運命だったのだ。景勝派の強引なふるまいは容認できるものではない。黒幕はおそらく樋口兼続。やつを討ち果たす!(とばっちり)
お久しぶりです。
今作にも、モブ家臣が居るのですね。二階堂以外にも面白い顔写真増えているのですかねー
毎日楽しみに投稿を待ってまーす。
>戦国大好きさん
コメントありがとうございます!
戦国立志伝では、モブ家臣を目にする機会がけっこう多くなっています。あまりにもよく目にするので、プレイしはじめのころは夢に出るかもしれません。私は出ませんでした。
面白武将にはまだ出会えていないのですが、本多忠勝の顔グラはよくも悪くも面白くなりました。
投稿については楽しみにしていただいて恐縮です! でも週一くらいで楽しみしていただければ幸いですmm
ついに御館の乱ですか!
武将の数や面子が他勢力でイベントが起こった時と違うような…?
外交姿勢が不和どころか修好でしかも景勝が遊びに来るとは凄いですね、色々と笑
続き、楽しみに待ってます〜
>羽州の子狐さん
コメントありがとうございます!
いちおう、御館の乱になりました!
>武将の数や面子が他勢力でイベントが起こった時と違うような…?
そうなんですね!
武将の数についてはイベント発生がけっこう遅かったので、この時点で姉小路家など吸収していました。それも影響しているのかもしれません。
面子についてはどうなんでしょう。いろいろと条件があるのでしょうか。
景勝の行動については突っ込みどころしかありません。でも景虎も常識はずれの行動をしたので似たようなものですね。。
結局ポチってしまいました(笑)
「鬼玄蕃」佐久間盛政でプレイしてます
攻城戦での武将視点で見える城グラがいいですね
たまらんぜです
さて、景虎くんは厳しい状況ですね
北条だけでなく伊達最上とも同盟できれば大分楽になりそうなものですが…
次回も楽しみに待ってます
>相模原さん
コメントありがとうございます!
ポチられたんですね!
佐久間盛政とは……いいチョイスです。
戦国立志伝は、全体的にグラフィックが進化している感じがするのでそれだけでも楽しめる人は楽しめますよね。私も楽しめる人なので楽しんでいます。
伊達と同盟というのも史実らしくていいですね。さらに最上も味方に……視野に入れなければならないと思います。
景虎も苦しい状況におかれていますが、見守っていただければ嬉しいです。
大名になったら、もう創造PKの今までのリプレイと変わりないんじゃ…?
>通りすがりさん
コメントありがとうございます!
た、確かに。そうかもしれません。でも、大名になってしまったものは仕方ありません……。創造PKと違うところもあるので、その辺を少しは紹介したいところです。