伊予征服への野心を燃やす本山家は、わずか2ヶ月のうちに安芸家を滅亡に追い込むと、1554年2月、東土佐から伊予河野家領へ大除城へと進攻。同時に西伊予からも曽根城へ出兵しました。
大除城は河野領内でかき集められた兵に守られていたため、攻城会戦を展開。豊岡城主代理・福留親政の奮戦により、地の利と武装で優る大除守備隊を打ち破り一掃に成功しました。
※大除城での会戦の様子。福留無双中。途中鉄砲の威力に狼狽えながらも、片岡衆の助けもあり、なんとか持ち直した。兵力に勝るとはいえ槍と弓だけでよく頑張った。
河野家は盟友・毛利、大友にも見捨てられ、領地を失って1554年10月に滅亡しました。
さて、無事に伊予を平定しましたが、三好家との決戦の前にしておかなくてはならないことがあります。
因縁の将、吉田孝頼の離反先である能島村上家の攻略です。兵力の回復を待たずに早速出兵しましたが、三好からの援軍・荒木村重が行く手を阻んできました。
本山藍、土居清宗、国人衆VS村上武吉、村重で会戦をしたのですが、鉄砲で撃たれるとこちらが簡単に崩れてしまいなかなか攻めづらい。更に村上武吉は釣瓶撃ちで攻撃力を増してきます。
※味方部隊がボロボロと崩れてゆく。意外としんどい戦いとなった。本音を言うと海での会戦なんだから、海で戦って欲しかった。こいつらはどこで戦っているのだろうか。
最後は乱戦に持ち込んで辛勝しましたが、兵力では勝っているのに苦戦して、さすがに鉄砲の威力を思い知りました。相手からすると、原始人と戦っているようなものでしょう。こちらの采配の悪さも要因ですが。
※最終的には本山346、村上・三好95。満身創痍でなんとか勝利したが、もうこれは敗北に等しい。
会戦に勝利して、大洲城から後詰の一条房基が到着しました。なんとか攻略できそうだと一息つきたいのですが、三好は続々と能島へ援軍を派遣してきました。
しまいには十河一存、三好義賢まで出てきました。それぞれ兵力2500程度のようです。三好としても、本山家が勢力を増すのは好ましくないのでしょう。
こちらとしても能島城はそれほど重要な拠点でもなく、城攻めを諦めようかとも思いました。しかし、吉田孝頼にしてやったりとほくそまれるのが耐えられないので、ここで切り札を使い、朝廷を介して三好とは和解しました。
以前の本山家は朝廷への工作をするのも苦しい財政状況でしたが、今ならそれほどの負担とはならないので、また工作すればいいか、と思ってのことです。
さすがに三好といえども帝には逆らえません。6ヶ月の停戦となり、援軍はすごすごと帰ってゆきました。
無事、能島村上氏は滅亡しました。この争いの発端となった吉田孝頼ですが、茂宗は彼の不満を汲み取れなかったことを恥じてこれを許し、伊予国、曽根城の城主に任じました。
これで、残すは阿波のみとなりました。しかし、相手は屈指の実力を持った大大名、三好家です。また戦略を練り直す必要があります。