【本山家の野望】その5 土佐の乱

岡豊城の状況を確認してみると、思ったより開発値は減少していませんでした。本山家に焼き討ちされて散々な目に遭ったはずなのに、民情も悪くありません。商業値が高いのが、長宗我部が金策に窮していたことを伺わせます。

motoyama_5_0※ただし兵舎は6と、悲惨な状況。

さて、上の画像で分かるように、岡豊城を得たことで、労力が2→6になりました。これで、ようやくまともな開発ができます。茂宗は岡豊城に入城。旧長宗我部の家臣団を内政に当たらせて、焼け野原となった岡豊城の再開発を急ぎます。茂宗の居城だった朝倉城の一切は本山藍が取り仕切ります。

国内の開発を進めていた折、旧長宗我部の降将、吉田孝頼が茂宗に迫りました。

motoyama_5_1※吉田孝頼曰く。「国を奪い、領地を広げるのです」。領土欲を煽る。

吉田孝頼の言うこと、もっともかもしれん…。となると、次に狙うのは…安芸家…。

ではなく、9ヶ月後に同盟の切れる一条家です。もちろん安芸との同盟を破棄して攻略した方が今後の展開は有利になるでしょうが、それはさすがの本山茂宗も引きますわ。

同盟が切れるまでの期間で国内を固めます。また、伊予方面の攻略に見据え、毛利家への工作を開始しました。

この間、本山城主・横山友隆が脅威的な速度で特性を習得。頭角を表し始めました。

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※横山友隆は生え抜きの家臣である。大切にしたい。(といっても、史実では長宗我部家臣となるのですが…。)

1551年12月、一条家との同盟が切れました。早速戦の準備にとりかかります。ご無沙汰だった片岡・葛原衆への懐柔を再開し、戦への参加を促しました。

翌1552年1月、一条家に対し、岡豊城主・本山茂宗、朝倉城主・本山藍をそれぞれ大将とした2部隊が窪川城へと進軍を開始。それを受けて一条家は中村御所から当主・一条房基自ら率いた警戒の兵が出陣しました。

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※共に長宗我部家と戦った一条家へと弓引くのは気が引ける。でも、これが戦乱だよね!

本山軍は一条房基隊と窪川城前で対峙。有利に戦うために一旦兵を引き、久礼の地で陣を張り待ち受けることにしました。この時、河野家・除城から兵が出陣してひやりとしましたが、どうやらただの物見でことなきを得ました。

motoyama_5_4※本山4841VS一条975。どう見ても会戦する兵力ではないが、陣での会戦を経験するために会戦を発動した。

motoyama_5_5※陣は山の上だった。設営していたら櫓とかが建つらしいですが、ここでは柵だけ。火計を用いられたら危なそうですね(?)

会戦に勝利。窪川城に残る兵力で本山の軍勢を止められるわけもなく、窪川城も落城しました。そしてその勢いのまま、本山茂宗は一条家の本城、中村御所へと詰め寄ったのでした。

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※親子水入らず、中村御所への旅路を楽しむ仲睦まじい親娘の光景である。

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