国親は三好家へ援軍を要請していました。三好家の軍勢が出陣していたことに気付いていましたが、物見の部隊と勘違いしていたのです。テヘッ
しかし、援軍として来た三好家・小笠原成助は本山茂宗からの夜襲に手も足も出ず、ボコボコに壊滅したのでした。
三好、恐るるに足らず。もとい、もともと同盟関係も無い長宗我部にそこまで兵力を割く義理もないのか、小軍勢がチラホラとやってくるばかり。攻城戦の会戦は敵を撃破すると耐久度を下げるボーナスがあり、援軍を撃破する度に岡豊城はボコボコになってゆく。
※一気に1000以上耐久度を下げることができた。耐久の減少値は、こちらの兵力依存かな?
この事実を前にして確信しました。岡豊城は落ちる。
が、調子に乗って焼き討ち、強行を続けていたところに、三好方の猛将・十河一存が1500の兵を率いて到着。
1549年8月、本山家は一旦引き上げることにしました。しかし岡豊城の耐久度を2600台にまで追い詰めました。
岡豊城は得られませんでしたが、この戦で会戦を使えばなんとでもなるという希望を見出しました。しかも、敵の援軍を1部隊撃破する度に岡豊城の耐久度は落ちてゆく。これは…チート…。
しかし、それでも三好家を敵に回すのは少々不安があります。本気で攻略されれば、恐らくひとたまりもありません。そこで、和解の手段を得るため朝廷工作を開始しました。
※和解には100の信用が必要だが、朝廷の工作は信用度が上がりやすい。他の大名家を頼るより確実だと判断した。
また、念のため一条家への工作を行い、援軍要請をする権利も一応確保しました。
1550年1月、長宗我部は再び安芸領・香宗城の攻略に乗り出します。本山家は再びその隙を突いて、岡豊城に進軍しました。第二次岡豊城攻防戦です。
第一次と同じく、会戦で長宗我部・三好の軍勢を撃破。十河一存の到着と同時に撤退。岡豊城は荒廃しました。
1550年10月、いよいよこちらから岡豊城攻略へと乗り出します。
もしかしたらいけるかな、と思い一条家への援軍可能拠点を見てみると、岡豊城も含まれていました。拠点が遠すぎるので援軍を派遣してもらえるとは思っていませんでした(未だに援軍を要請できる範囲がわかりません)。一条家も安芸家へと攻め入った長宗我部を、内心苦々しい思いで見ていたことでしょう。
一条の援軍を待ち、足並みを揃えて本山城・朝倉城からそれぞれ進軍。更に安芸家への援軍を要請しました。これで準備は整った。後は岡豊城を攻め落とすだけです。
※包囲されている長宗我部国親。北東には三好の援軍・荒木村重こと、道糞の姿が見うけられる。
しかし、やっぱり会戦はチート級の救済措置ですね。