1535年1月、高田城の戦いが終わり、三浦軍は帰城しました。戦いの中で、山名軍の先鋒をつとめていた行松正盛は三浦軍に捕縛され、捕虜になっていました。三浦家当主・三浦貞久は正盛を説得。
正盛は説得に応じて三浦家に仕えることになりました。
※仕官の儀、謹んでお受けいたしまする。将の少ない三浦家にとって、貴重な人材。
※いかにも不服そうな表情の行松正盛は、三浦家中で最高齢。最も武勇にすぐれた武将という立ち位置になった(武勇55)。齢47歳。
貞久は、さっそく正盛に尼子経久への陽動を命じました。正盛は兵200の部隊をひきい、月山富田城へと略奪に出発します。
その間に、三浦貞盛が戦で傷んだ高田城の修復を急ぎます。
※労力2でも、城の修復をすることができる。どこに攻められるかわからない状況なので、耐久値はつねに高く保っておきたい。
翌月、正盛は月山富田城に到着します。尼子経久はそれをうけてか、城兵をひきつれて出陣。正盛はいったん荒島へと引きかえしました。
ところが、どうも経久隊の様子がいつもと違います。経久は正盛を追って荒島まで兵をすすめてきました。正盛隊はあわてて兵を引きますが、追撃をうけてしまいます。
しかし経久隊に接触してその目的がわかりました。どうやら経久隊の目標は荒島よりさらに東、山名領・八橋城だったようです。
※敵部隊と接触すると、敵の兵数、目標がわかる。画像中央右にあるのが八橋城。左下には尼子国久の姿も見られる。思わぬ追撃に被害をうけてしまった行松正盛は、とりあえず陽動を中止して帰城した。
八橋城は伯耆の本城ですが、「高田城の戦い」による敗戦で兵の大半をうしなっています。経久はこの現状を、伯耆侵攻の好機と見たようです。尼子家による山名攻めが始まりました。
※兵のない山名家は防衛できなそうだ。無理な美作侵攻が、この戦の引き金になった……。
さらに尼子家は、高田城の北にある羽衣石城にも侵攻。津山城主・尼子誠久がその指揮をとります。
※猛将・尼子誠久は、羽衣石城を守る山名誠通をあっという間に撃破。すぐさま城への強行をはじめる。尼子家にここを攻略されると、三浦家は包囲される形になってつらい。
この羽衣石城は、当家も目をつけていた城です。耐久値が2000と低く、兵の少ない三浦家でも攻略できるとみていたためです。ここを攻略すれば政策も実施できるようになり、選択肢も広がります。三浦家にとって、喉から手が出るほど欲しいところではあるのです。
この時、三浦家は「高田城の戦い」でかけつけた国人衆・江尾衆の他に、備中にある虎倉衆の支持も得ていました。国人の力を借りて、攻城戦でよわった誠久を撃破すれば……三浦家による羽衣石城の攻略も見えてきます。
しかし、米が足りません。この時、三浦家の備蓄はまだ2月なのにわずか1100。高田の兵900が出れば、あっという間に底をついてしまいます。そうなれば、どこかから攻められた時に高田城を防衛できません。
貞久が迷っているところに、周防の同盟国・大内家から使者が到着。なんと米の援助の申し出でした。
※「大内家から兵糧1680を受領しました」渡りに船とはこのこと。ひとまず、米不足の不安はなくなった。大内義隆の腹の中はわからないが、貧困にあえぐ三浦家にとってありがたい物資援助だ。
もし失敗すればかなり厳しい状況になりそうですが、これは三浦家にとって領地を広げる絶好の機会。貞久は出陣を決断し、羽衣石城の攻略をめざすこととしました。ひとまず城の近く、西谷まで兵をすすめて様子をうかがいます。
※出陣するぞ! 副将・貞盛をつれて兵を出した貞久。ついに忍耐の時をへて、三浦家が(ハイエナ)攻勢に出るときが来たのだろうか!?
また津山城に100の兵を差し向けることにしました。この陽動に誠久が気をとられて兵を引けば、攻略成功の可能性は高まります。三浦家の攻略は、成功するのでしょうか。
※画像中央下に見えるのは、浦上家の軍勢。どこに向かっているのだろうか。
大内のあまりのタイミングの良さに思わず吹きました。
なに、そのリアル戦国ww
AIが優秀過ぎるww
その7も読みましたが、あえてこちらにコメント。
引き続き楽しみに読んでいます。
>安芸在住さん
コメントありがとうございます!
なんでしょうねこれは。こんなにちょうどよく物資を送ってくれるとは驚きでした。
本文には書いていませんが、大内家は九州で秋月家を滅ぼしたりしていました。
九州攻略に集中していて中国方面には兵は出せないので、とりあえずお米だけ送っておいたのでしょう(妄想)こういうことがあるから楽しいですよね^^
三浦家としてはつねに尼子の背後を突いてほしいと願っているのですが、なかなかそうはいきませんね。。
読んでいただいてありがとうございますmm