【大崎文の野望】その2

大崎文は”創造”主義をめざし、各軍団に創造性を上げる開発指示をしていました。その効果がさっそく出はじめたのか、大崎家の体制は”創造”へと変わりつつあることを佐竹義重が報告してきました。

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※「当家の主義が中道から創造へと移り変わっているようです」 義重の顔が並びすぎて、ちょっとゲシュタルト崩壊を起こしそうだ。豊臣領には創造性を上げる施設もあるので、攻略を続ければ創造性も自動的に上がりそうである。

 

当家はこのまま創造主義に向かいます。

 

さて、1605年7月、伊達政宗軍団が美濃太田城を攻略。これで美濃の攻略に残すは大垣城と岐阜城のみとなりました。美濃の主城・岐阜城を攻略すれば、中部地方はおおむね大崎家の影響圏になって戦力が安定します。

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岐阜城は豊臣家に従属している池田輝政の居城です。池田家の城は岐阜城のみなので、ここを攻略すれば池田家は滅亡。そうなれば池田家臣を大崎家に引き入れることもできます。

 

大崎文は伊達政宗軍団に岐阜城の攻略を指示。共同して美濃制圧を目指しました。

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※「お任せください 必ずや目標を陥落させて見せます」伊達政宗は攻略に自信があるらしい。

 

ただし、岐阜城は耐久が13000もある堅城。さらに櫓もあるので、攻略は大変そうです。念のため、城下を守る池田輝政に対し、津軽為信が会戦をけしかけました。

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すると夜襲に成功。

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※どぁ! 気合ば、へろー!

夜襲をうけた池田輝政と佐久間勝政はさんざんに蹂躙されて壊滅しました。

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※ヤッテマレ!ヤッテマレ!

 

大崎軍は岐阜城を包囲、強行を開始しました。いかに堅城といえども、強行を繰り返す大崎軍の前になすすべもありません。防衛のためには救援が必要ですが、池田家の主家・豊臣家は北陸の攻撃に忙しく、援軍を出せずにいます。

政宗軍団に侵攻の指示を与えてから2ヶ月後、9月には、岐阜城は落城。池田家は滅亡しました。

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※岐阜城、攻め落としてみせたぞ

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※1605年9月、池田家は大崎家によって滅ぼされました

大崎文は池田家の家臣を登用。池田家は大崎家に取り込まれました。

 

このころ、大崎遠征軍もだいぶ疲弊してきました。その大部分はいったん帰城。軍備を整えて、次の遠征に備えます。

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※大崎文の兵もかなり消耗したので、北陸を経由し利府城へと帰還中。このとき南西にある金ヶ崎城が攻められていた。しかし北東に居る蜻蛉切・本多忠勝16400の兵はこれをスルー。新築の賤ヶ岳城を守りに行ってしまったので金ヶ崎城は落城した。

 

岐阜城を攻め落とした大崎軍は、そのまま近江・長浜城へと侵攻。長浜城は名将・福島正則ひきいる13000の兵が守っています。ここで援軍が来られると面倒です。

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※画像上部で見きれているのが本多忠勝で、1万5千くらいの兵をひきいているのでなんとかなりそうではあるが。

大崎軍はその前に、会戦を展開して正則隊を撃破しました。

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※岩城親隆の鼓舞。

 

1605年11月、長浜城は強行の末に城門を打ち破られて落城。これで佐和山城、八幡山城を攻略すれば、二条御所にたどりつきます。大崎家の上洛も見えてきました。

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※近江を攻略すれば、二条御所は目前である。すでに伊達政宗軍団が佐和山城へと侵攻を始めている。

 

このころ、大崎家は創造主義になりました。

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※「まずは『伝馬制』を実施して商業に力を入れ、他家への工作を有利に進めましょう」 主君に対し、けなげに”創造”主義についてのアドバイスを送る保守武将・佐竹義重。でも、いまさらである。

 

そして、大崎家も侵攻を繰り返し、だいぶ大きな勢力となりました。相当の力を得た大崎文は、佐竹義重に進言され、ついに征夷大将軍の座を意識しはじめたのでした。

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※「殿が征夷大将軍の座に就くことも考えなければなりますまい」姫が征夷大将軍となれるのだろうか。

 

 

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