1603年9月、伊達政宗は信濃の戦において、四釜隆秀を捕らえます。義隆は大崎家への復帰を期待しましたが、隆秀にその意思はありませんでした。義隆はしかたなく、隆秀を解放します。
※「その名は覚えておく」なんとも他人行儀な隆秀。孤立した北陸を任せたからか、よほど大崎に不満があったようだ。
さて、後瀬山城の戦いが終結してからおよそ6ヶ月後、反豊臣連合は結成から3年が経過したので解散しました。
※1603年11月、連合結成から3年が経過し反豊臣連合は解散した
※大崎家は豊臣家に攻められまくり、どうにかこらえている状況である。
連合の解散後、義隆はふたたび連合を結成しようとしますが真田昌幸に注意をうけます。どうやら、連合を結成する条件を満たしていないようです。
※「連合を結成するには、盟主以外に加盟する勢力が2勢力以上必要ですぞ」
※勢力情報を確認すると十分にあるので結成できそうだが、どういう条件になっているのだろうか。従属勢力を抜かすと数は5となるので、もしかすると従属勢力の他に反、親、各3勢力必要なのかもしれない。
これからは連合にたよって豊臣家にあたることができません。また、連合を組めないことにより、大崎家は各勢力との関係保全にも力をさかれることになります。
このころ、北方の攻略を担当していた陸奥軍団長・一栗高春が蠣崎家を滅亡に追いこんでその役目を終えました。高春は陸奥の軍団をいったんはなれ、隆秀の後任として北陸の軍団を継ぐことになりました。
しかし北陸の情勢は芳しくありません。高春も防衛につとめますが、兵糧がとぼしく兵がうまく出せない状況におちいりました。後瀬山城は物量に押されて落城。その後は越前・金ヶ崎城でなんとか豊臣軍を食い止めていました。
※後瀬山城主・久能宗能は豊臣軍に投降。せっかく北陸を統一したが、すぐに崩れてしまった。
一方、その南、尾張では、那古野城で一進一退。両軍による激しい城の奪い合いが続きます。
※榊原康政が那古野城を守る。津軽為信がなんとか落城したが……。
※「我らの那古野城を目指し総勢43800の敵が攻め寄せてくるとのこと」 これを防ぎきるのは無理そう。
そんな中、1604年6月、義隆は『幸運』を修得しました。ここにいたり、ついに己の運命を跳ねのけたのです。
※「新たに『幸運』を修得したぞ。この力で、天下を目指す!」 はしゃぐ義隆。たしかにここまできたので『不運』ということもない。
義隆はこの機に政策『家臣集住』を採用。兵舎の開発をして、一気に豊臣家の攻略をすすめたいところです。
そして1604年9月、大崎家は奥州から大軍を動員し、尾張に攻め入る準備を整えました。その数、およそ5万。各軍団と連携して一気に尾張を攻略し、上洛の準備とするつもりです。上洛をなして力をつければ、征夷大将軍を名乗ることもできます。そうなれば義隆による天下統一も目の前です。
しかし、定命がそれを許しませんでした。
1604年10月、病に伏していた大崎義隆は決戦を目前にして、春日山城に没しました。大崎義隆が抱いた天下への野望は、その途上にして終わりを告げたのです。
※我が野望、ここで潰えるとは……。享年57歳。道半ばながら直前に「幸運」となったので、きっと本人にとっては幸せな最期をむかえたのだろう。
当主・大崎義隆が死亡してしまったので、『大崎義隆の野望』はこれで終了です。プレイ年数はおよそ17年。義隆は少し頑張りましたが、ほぼ史実通りの逝去で、残念ながらゲームクリアにはいたりませんでした。
ここまで読んでいただいた方、いらっしゃいましたら、お疲れさまでした&ありがとうございました。
終了時の勢力図
ファイルサイズがでかいのでリンクにしました。北条家がけっこう西に伸びていて、東海・信濃はいびつな勢力図となりました。
お疲れさまでした。
すいませんが、できたら最終的な全国地図を見せてもらえませんか。
>通りすがりさん
コメントありがとうございます。この記事の最後に地図を追加しました。
もし見えづらいところがあったら教えてください。
早速の掲載ありがとうございます。
地図のお陰で義隆公の偉業がはっきり確認できました。
決戦前に当主病死とか、絶対に暗殺だと妄想しております。
改めてお疲れさまでした。
>通りすがりさん
こちらこそコメントありがとうございます!
通りすがりさんもお疲れさまでした。
確かに大崎家中は野心家であふれかえっているので、暗殺も十分にありそうですね。そうではないと信じたいですが……。
そのうちに更新もあると思うので、思い出したときにふらっと通りすがっていただけるとうれしいです。読んでいただいてありがとうございましたmm
東北にこんな武将がいたとは…
長い間ご苦労です
せめて南条に軍団を任せたかった…