1603年5月、後瀬山城の戦いが始まりました。大崎家は同時に長浜城にも侵攻。豊臣家の目もそちらに向いていて、ここを破れば豊臣軍の後続はおそらくありません。
この戦いは、大崎家の北陸統一をかけた重要な会戦です。
大崎軍(兵力8904)
(名前 / 兵数/ 統率/ 武勇)
- 南条隆信 3301/ 89/ 83
- 北信景 2701/ 70/ 79
- 柏山明助 1752/ 79/ 76
- 小野寺義道 1207/ 73/ 75
豊臣軍(兵力10881)
(名前 / 兵数/ 統率/ 武勇)
- 加藤清正 8020/ 99/ 111
- 成瀬正成 2861/ 92/ 77
豊臣軍はわずか2部隊。画像でみて右を加藤清正、左を成瀬正成が守っています。
※加藤清正は8000の兵をひきいている。まともに当たっても勝てそうにないので、何とかして包囲する必要がある。
一方、大崎軍は4部隊。右に北信景が、他3部隊は左に陣取っています。
ここは北信景が加藤清正を揺さぶりながら、左3部隊で成瀬正成を突いて早めに撃破。その後、全部隊で加藤清正を包囲したいところです。
会戦が始まりました。まず北信景が加藤清正にいどみます。しかし、やはりこちらの被害がおおきく、勝負になりません。対応に迷っていると、加藤清正が斉射を発動。信景はその間に回りこんで、側面からの攻撃を狙うことにしました。
※斉射を使うとその場にとどまることになる。これで加藤清正が動く心配はなくなった。
一方、左側では3部隊を固めて、文様の叱咤を発動。攻撃力を高めてから成瀬正成の側面にまわりこませ、包囲します。
ここで柏山明助が正面から斉射を発動すると、正成も合わせるように斉射を発動してきました。そこを南条隆信が側面から騎馬突撃。正成隊は混乱し、壊滅しました。
※斉射中に突撃をうけると部隊は混乱する。正成、うかつな斉射。
※「ええい、正気に戻れ!」 このように、斉射を受けないように突撃すると、斉射している敵を混乱させることができる。この後、隆信の突撃を受け続けた正成隊は壊滅した。
正成を撃破した3部隊は加藤清正の方へと向かい、清正をとりかこみました。しかし清正の攻撃を受けた柏山明久は歯が立たず、壊滅してしまいます。
※櫓からも攻撃を受けているからか、清正16に対して、明助は40もの被害。これでは勝てない。南条隆信は頑張って斉射しているが、なかなか清正の兵を減らすことができない。
大崎軍が攻めあぐねているところに、加藤清正は北信景に対して戦法『虎狩り』を発動。虎狩りによって、北信景は加藤清正に引き込まれます。
信景隊は乱戦にもちこまれて壊滅しまいました。これで大崎軍の兵力は一気に減少。豊臣軍5422に対して、大崎軍2276となってしまいます。
この兵力差で勝利するためには、加藤清正隊を混乱させるしかありません。その後も南条隆信はたびたび斉射を発動して清正の混乱を狙いますが、うまくいきません。そうしているうちに小野寺義道も壊滅。ついに隆信と清正、1対1の戦いとなってしまいます。
それでも隆信は、何とか逆転を狙って耐え、会戦は2ヶ月目に突入しようとしていました。
敗色も濃厚となったその時、後瀬山城の左方に回りこませていた葛西俊信が援軍として参戦します。
※すっかり存在を忘れていた。しかも、かなり戦場に近い位置に援軍に来てくれた。これで大崎軍4815VS豊臣軍4658。兵数で逆転した。
加藤清正は援軍の葛西俊信には構わず、南条隆信に向けて虎狩りを発動します。
それに対して隆信は斉射を発動。斉射は移動できなくなるので、虎狩りの引き寄せ効果をうけません。そして虎狩りの効果が切れるときをみはからい、俊信が『咆哮』を発動して清正に迫ります。
しかし清正は隆信を追い込もうと、執拗に攻撃します。さらに追い打ちをかけるように、清正の『虎』が発動。
※虎はなにゆえ強いのだろうか。会戦中には武将の特性が勝手に発動することがある。この『虎』もそれ。
その後は一方的にやられ、大崎軍の兵数870に対し、加藤清正1646となりました。しかしあきらめません。寡兵の隆信が清正を引きつけている間に、側面から俊信隊が斉射を発動。
俊信の斉射をうけ、ついに清正隊は混乱しました。南条隆信は清正隊に突っ込み、いくらか兵力を減らして撤退します。
俊信も斉射が終わった後に乱戦にもちこみ、ついに清正隊を撃破。
※一見敗戦に思えても、諦めなければ勝利することもあるものだ。しかしそもそも俊信を回りこませなければこんなに苦戦することもなかったかもしれない。
その後、北陸軍団の包囲によって援軍をうしなった後瀬山城は降伏。こうして大崎家の北陸の統一がなされました。
※後瀬山城は我らに降るとのこと。この戦は、我らの勝ちのようですな。
ただ、その勝利の裏では出陣中の大崎義隆が病にたおれました。