【大崎義隆の野望】その17 再動

戦の中で経験を積んだ伊達政宗は「独眼竜」を修得。

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※「この力で、天下に覇を唱えるのだ!」野心がにじみ出る政宗の一言。というか、今まで独眼竜じゃなかったのか。

 

大崎義隆はそれに対抗して鬼になりました。

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※「この力で、天下を目指す!」とってつけたような感じだが、名乗ったもの勝ちということだ。

 

さて、越前・倶利伽羅の戦いからおよそ1年半の歳月が流れ、豊臣家と反豊臣連合の攻防は一進一退。押し合いが続いていました。

このころ大崎家は東海への攻略に力を入れていて、岡崎城の周辺、三河一帯の攻略に成功していました。これで東海・北陸から尾張を挟撃する構図が見えてきました。しかし1602年4月、豊臣軍は大軍を動員して三河の奪還をめざします。

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※伊勢・近江あたりの兵が次々と三河にやってくる。

 

大崎家は三河防衛のために、刈谷の地で大会戦を行うことにしました。

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※越後軍団長・上杉景勝は遠くから来てくれたのはいいが、戦場から目をそむけてあさっての方を向いている。おそらくやる気がない。でも大会戦には巻き込まれてしまった。

 

大崎軍の兵力20293にたいして、豊臣軍は29740。兵力におとる大崎軍は、総大将・真田昌幸の戦法『表裏比興』を用いて敵の同士討ちをねらう作戦を立てました。

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※背水の陣をとった。せっかくなので敵の総大将・佐々成政を混乱させて一気に攻め崩したいところだったが……。

 

しかし『表裏比興』を過信した結果、その作戦は崩れます。いったんは佐々成政の混乱に成功しますが、すぐに我に返り昌幸隊への攻撃を再開します。

混乱に乗じて安全な場所まで移動しようと考えていた真田昌幸はあてが外れてしまいます。三方を敵にかこまれて、退路を絶たれてしまいました。仕方なく背後の河を渡りますが、堀内氏善が神速を発動して追撃。昌幸隊は河を渡りきる直前に壊滅してしまいました。

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※『表裏比興』の効果時間はゲージ4つを消費するのに意外と短い。使いどころを間違えると、思った通りの結果にならないので気をつけよう!

 

総大将を失った大崎軍は四散。刈谷の戦いは大崎軍が1万の兵力を残しての、無残な敗戦となりました。

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※……

 

大会戦に敗北した大崎家は、なすすべもなく三河一帯をうばわれてしまいます。その結果、多くの将が豊臣軍にとらわれました。

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※岡崎城まで落城。軍団長・徳川家康も捕らえられた。しかし豊臣秀頼は家康を解放。秀頼は器が大きいのだろう。

大崎家はその後、ふたたび軍を編成して岡崎城を奪還しますが、榊原康政ら失った名将は戻ってきませんでした。

 

その後は、またしばらく動きのない状態が続きます。

 

1603年3月、大崎軍は大軍を用いて北陸の攻略に着手。杣山城を攻略して勢力を回復します。今回はさらに金ヶ崎城にまでのばしました。いきおいに乗る大崎軍は、若狭・後瀬山城にまで攻めいります。

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しかし、後瀬山城には豊臣家の名将・福島正則と加藤清正が救援に向かっていました。それをうけて、大崎軍は城下で会戦を展開。

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※加藤清正は足が遅い。到着するまでに時間がかかるので、その前に後瀬山城の城兵を撃破したいところ。

後瀬山城下で両軍が対峙します。南条隆信ひきいる大崎軍は、まず城門前の兵を一掃すると、援軍にきた福島正則隊を全部隊で包囲。正則隊を斉射によって混乱させたところを、すかさず乱戦にもちこんで会戦に勝利しました。

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※福島正則「兵が混乱しただと……!?ええい、正気に戻れ!」

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※正則を撃破。

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※この会戦によって南条隆信は「名将」を修得して名将となった。よかったね。

 

しかし、隆信たちの元には後続の加藤清正らが迫っています。大崎軍はいったん城下を離れて部隊を展開。再度、後瀬山城での会戦をおこないました。

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※葛西俊信は回りこんで挟撃をはかっていたので不参加。大崎8961VS豊臣10881の戦いとなった。大崎軍は全て奥州の武将だった。

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※8023の兵を率いる加藤清正は強敵。一筋縄ではいかなそうだ。

 

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