【大崎義隆の野望】その16 反豊臣連合

北陸でひと騒動あった裏で、大崎家は政策『遠交近攻』を採用して九州の覇者・島津家に接近します。これは反豊臣連合の結成を意識したものでした。

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※島津家への使者には津軽為信が担当。互いにお国言葉が激しそうなので、意思疎通ができるのかはすこし心配である。

その一方、背後のうれいを断つため、陸中~蝦夷までの一帯を支配する南部家の攻略にも着手します。

大崎家は陸中・高水寺城を攻略して、そこに陸奥軍団を新設。一栗高春を軍団長として出羽・最上家とともに南部家を攻撃していました。

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※一栗放牛の孫・高春もついに軍団を持つにいたった。南条隆信は今後も軍団を持つことはない。

さらにその西側、上杉家の攻略も順調に進行。上杉家は滅亡して大崎家の傘下となります。

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※「どうだ! 根知城、攻め落としてみせたぞ!」 大崎義隆が上杉家最後の城、根知城を攻略。

上杉景勝の所領は少し減りましたが、その後は大崎家・越後軍団として義隆を支えることになります。これで越後の情勢は安定しました。

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※義隆の采配に、景勝も不服の表情を隠すことができない。

 

上杉家を吸収して地盤が安定した大崎家は、ついに反豊臣連合の結成を画策。諸勢力に連合への加盟を要請する使者を出します。

そして1600年11月、連合は結成されました。

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※津軽為信は無事にコミュニケーションがとれたらしく島津家も反豊臣連合に参加した。

親豊臣連合(総兵力797211)

  • 豊臣家 兵力780137
  • 宇喜多家 兵力10337
  • 池田家 兵力6737

反豊臣連合(総兵力748987)

  • 大崎家 兵力260186
  • 島津家 兵力251291
  • 北条家 兵力189466
  • 最上家 兵力48044

 

 

豊臣家の従属勢力と南部家以外の勢力は反豊臣連合に参加となりました。連合の全兵力を合わせれば、豊臣家にかなり肉薄しています。

島津家は、連合結成とほぼ同時期、果敢に豊臣領へと侵攻しました。

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※緑が島津、赤が豊臣。島津家は戦が始まると、あっという間に周防高森城を攻略。その後も次々と城を攻略していった。恐ろしい。

 

豊臣家は島津家の対応におわれながらも、信濃にある北条領、飯田城へと侵攻を開始します。これには尾張の兵力の相当数が割かれました。

北条家はその侵攻をうけて大崎家に援軍を要請。当家がこの要請を受けると、駿河・徳川家康軍団が本多忠勝隊を派遣します。信濃の山中は豊臣VS北条・大崎連合の激戦地となりました。

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※蜻蛉切

 

信濃で戦が起きたことで、尾張が手薄になります。当家はその隙をついて東海方面の攻略に力を入れました。佐竹義重を中心とした大崎軍の快進撃がつづき、豊臣秀頼が居城としている岡崎城の包囲も完成します。

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※もしも豊臣秀頼を斬れればおそらく豊臣家の固有政策「人掃令」が解除される。そうなれば兵力が減少して楽になるので、かわいそうだが、ここは秀頼を捕らえたいところ。だが落城しても捕まらなかった。

 

すると豊臣家は次に北陸方面への攻撃をはじめました。近江周辺から集めた大軍を大崎領・金沢城に送り込みます。その数、およそ31900。後詰も次々と出陣し、最後には4万を超えました。

対して当家が動員できる兵は27000ほど。このままでは苦しい展開が予想されます。

しかし18900の兵を率いる豊臣軍の主力・藤堂高虎隊の様子を見ると、かつて大崎家の重臣だった四釜隆秀が副将としてついています。

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※藤堂高虎の大きな顔画像の下に2つ並んだ小さな名前がある。これは副将で、四釜隆秀の名前が下にあり、部隊に所属しているのがわかる。

隆秀は豊臣家に完全に臣従しているわけではありません。義隆は当家への復帰をうながすため、密使を送り叛心を高めていました。隆秀はまだ寝返りに応じるつもりはないようですが、不戦に応じる意思はあるようです。

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※叛心40を消費すれば、不戦の交渉を行うことができる。

ここで義隆は、隆秀にこの戦の不参加を願い出ました。隆秀はそれを受諾。豊臣家の主力・高虎隊は隆秀の金沢城の手前で統制を失い、大崎家と停戦状態となります。

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※「義隆様との約束どおり、ここは戦わずにやり過ごすとするか」 投降後はじめての戦で不戦。

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※高虎隊のアイコンが青っぽくなり、いつもの弁当タイムが始まる。これで高虎隊は大崎家とは不戦となった。

 

しかし、その停戦期間もわずかに一ヶ月間。大崎軍は隆秀が高虎隊を抑えこんでいるうちに、金沢城下に集まってきた豊臣軍と大会戦によって決着をつけることにしました。

大崎軍23933VS豊臣軍19080。倶利伽羅の戦いが始まります。

この会戦は高虎隊が参加していれば厳しいものでしたが、高虎隊の不参加によって両軍の優劣は逆転。大崎軍は豊臣軍を打ち破って、金沢城下の脅威を排除することに成功しました。

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※柏山明久が敵の総大将・長宗我部信親の背後から突撃。その後、明久隊は壊滅したが、なんとか信親を撃破することができた。この戦では上杉家の直江兼続を借りていたが、この戦の後に返した。

 

倶利伽羅の戦いの後に高虎隊の停戦状態は解除されましたが、兵糧の不安もあるためか撤退。こうして大崎家は金沢城を守り切り、豊臣軍の勢いを削ぐことに成功したのでした。

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※金沢城から撤退する藤堂高虎。これで北陸の戦はいったん終結した。四釜隆秀は泥をかぶって大崎家の危機を救ったとも言えるが、今後、大崎家に復帰することはあるのだろうか。

 


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