大崎家当主・大崎義隆は津軽為信に右大臣を名乗ることを勧められます。しかし、義隆はこれを断りました。
※本城の所有数が多くなると発生する官位ミッション。本城を一定数攻略すると、「右大臣」を名乗れる。しかし「右大臣」を名乗ると、下位の官位を名乗ることが難しくなる。義隆が史実で名乗った官位「左衛門佐」が欲しかったのでここはひとまず辞退した。
1597年12月、豊臣家と大崎家は停戦状態でしたが、その状態は解かれました。
翌年1月、豊臣秀吉は徳川領・金沢城への攻撃を開始。金沢城下では合戦がはじまりました。金沢城の攻略を狙う大崎軍は漁夫の利を狙って、戦場から少し離れた要所で様子をうかがうことにしました。
金沢城下が豊臣軍の攻撃を受けたことで、高岡城主・本多小松が金沢城の援軍に向かいます。これにより、高岡城の守備は手薄となりました。
大崎軍はその隙を突いて侵攻。一気に高岡城を落とし、さらに能登の豊臣領・七尾城へと攻めこみます。
豊臣軍と徳川軍による金沢城下の攻防はおよそ2ヶ月つづき、豊臣軍が勝利。豊臣軍・母里太兵衛はいったん金沢城を包囲しますが、七尾城が攻められていることを知り救援に向かいました。
※母里太兵衛は大河ドラマで株を上げた。その影響で、最近はウェブ検索で母里太兵衛と入力すると「母里太兵衛 もこみち」と表示されるようになった。
大崎侵攻軍はそのタイミングを狙って金沢城になだれこみます。兵のいない金沢城は大崎軍によって包囲、強行攻撃にさらされました。そして1598年3月、金沢城は落城。
※「この明久が金沢城を攻め落としてみせたぞ!」 明久は義隆と共に春日山城に入城したので、活躍の場が多い。
その後、能登への攻撃を強め、七尾城、宅田城、松波城を攻略。能登も大崎領となりました。
金沢城の落城から5ヶ月後、1598年8月、大崎軍は金沢城の西にある加賀・大聖寺城の攻略に着手します。しかし、豊臣家の援軍が到着して両軍にらみ合いになりました。
大崎軍・南条隆信は状況を打破するため、海路を通って大聖寺城の背後にまわろうとしますが敵の軍勢にはばまれてうまく進軍できません。
※隆信が進む松任沖~東尋坊沖はレベル1の遠海。進軍に時間がかかる。特に戦闘があると、速度は悲惨なものとなる。
大崎軍が大聖寺城を攻めあぐねていた時でした。
太閤・豊臣秀吉、没す。その報は唐突に舞い込んできました。
※といっても、戦場で直接ぶつかったわけではないので、あまりこの顔になじみはない。
豊臣家を継いだのは、豊臣秀頼(6歳)。義隆は家中に何か混乱があるはず、と期待します。
しかし、特別の変化はありませんでした。豊臣家の固有政策『人掃令』も健在。兵力の減少もなく、大崎家にとっては思ったほどの影響がありません。豊臣家中の結束は案外に固かったようです。
さて、秀吉が没しても、戦場に変わりはありません。海路を進む隆信らは兵糧切れのおそれがあったので撤退。
大聖寺城には両軍の兵が集まり、大会戦を開ける状態となりました。大崎軍はここで大会戦を行って敵の一掃を狙います。
※大崎17573VS豊臣14348。海路を通った部隊は、すでに兵糧切れ。海路は恐ろしい。
豊臣軍の総大将・長宗我部元親は強敵でしたが、大崎軍はうまく包囲。相馬義胤が騎馬突撃で元親を背後から強襲します。義胤の突撃をうけて、元親隊は壊滅。大崎軍は会戦に勝利しました。
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その後、勢いにのる大崎軍は豊臣家の城を次々と落城。越前・杣山城にまで勢力をのばし、北陸の基盤を固めます。
一方このころ、甲斐・信濃でも北条・徳川・豊臣・大崎、4勢力による争いは激しくなり、一進一退の攻防が続いていました。
そんな中、義隆は信濃・伊達政宗軍団に深志城の攻略を指示。政宗はその命にこたえて深志城を見事に攻略してみせたのでした。
※「深志城も、俺のものよ!」 軍団長だからあながち間違いというわけではないけども。