大崎軍は佐竹軍と御前山で対峙しましたが、戦場は平地。障害物もなく、戦場については特筆すべきことがらはありません。
あえて言えば、敵の総大将・佐竹義重は強敵です。
今回は部隊を本隊と別働隊の2つに分けて戦います。
まず、中央に主力5部隊を固めて、本隊とします。その本隊を、南条隆信隊の副将・大崎文の範囲戦法『叱咤』で攻撃力を上げ、その後ゆっくりと敵に近づきます。
一方、別働隊は神速を持っている一栗高春隊、柏山明久隊が担います。彼らは戦場の左側を経由して敵の背後に回りこみ、主力部隊と前後から挟撃します。
※たまたま神速持ちが左側に固まった。一応、一栗高春の右隣にいる泉田隊も同行する。
こちらには『離反』や『穿ち抜け』など決め手となる戦法はありません。しかし、兵力で優っているので無理な作戦をとらず文様の『叱咤』を軸にして戦えば、佐竹軍を蹴散らすことは難しくないはずです。
大崎軍(兵力18194)
- 片倉小十郎 4500/ 93/ 87
- 南条隆信 2500/ 79/ 70
- 伊達成実 2400/ 90/ 98
- 一栗高春 2200/ 69/ 78
他4部隊
佐竹軍(兵力12615)
- 佐竹義重 3315/ 96/ 103
- 佐竹義久 2200/ 79/ 73
- 佐竹義宣 2100/ 83/ 74
- 真壁氏幹 1800/ 64/ 91
他2部隊
御前山の戦いが始まりました。まず、本隊が文様の『叱咤』を受けるために中央に集まります。『叱咤』発動のタイミングは、敵の部隊を発見してからです。
いっぽう、別働隊は左側に回りこみます。こちらでは敵部隊を発見しますが、柏山明久と一栗高春は神速を発動。敵部隊を無視して敵の総大将・佐竹義重の背後を狙います。
一方、主力部隊も敵将・佐竹義宣と遭遇。すかさず『叱咤』を発動して佐竹軍を迎撃します。
※ 「※※※※。※※※※※! ※※※※※※※※!!」(過激な言葉)
それからは、次々と敵将が出現。佐竹義重隊も現れ、戦場は混戦状態になります。
ここで大きく回りこませた別働隊を義重の背後へと向かわせ、挟撃は成功。こちらが優位の流れとなりました。
※画像中央にいるのが佐竹義重隊である。別働隊はうまいこと背後を突くことができた。
しかし挟撃を受けた義重もただでは終わりません。固有戦法『坂東太郎』を発動して大崎軍に対抗します。
※ 『坂東太郎』は消費が2なのに敵を動けなくして自分は乱戦を強化する、お値段以上の戦法やっちゅうねん!
が、大勢は決していました。『坂東太郎』で戦況がくつがえることはなく、佐竹義重は壊滅。大崎軍は無事に勝利を得ました。
佐竹軍の一掃に成功した大崎軍は、佐竹領の切り取りにかかります。後詰も到着し、常陸の城は次々と落城。
※「太田城、攻め落としたり! 勝ち鬨をあげよ!」 佐竹家が持つ唯一の主城、太田城も南条隆信の手によって落城した。
4城を攻略し、残す佐竹領は真岡城・小田城の2城のみとなりました。
そして真岡城の攻略中、西から軍勢がこちらに迫ってきました。どうも、徳川家が佐竹家に出した援軍のようです。この援軍は微々たるものですが、徳川家は当家の2倍以上の兵力をかかえる勢力。敵に回したくはありません。
しかし、佐竹攻略を中断するわけにもいきません。結局、徳川家・松平秀康隊とは真岡城下で合戦になりました。秀康は撃退しましたが、これで、徳川家と当家は断絶状態となります。
※断絶になると信用も下がる。これまで工作してきたものが、無駄になってしまった。
1594年5月、大崎義隆が小田城を攻略し、佐竹家は滅亡。大崎家の関東進出は果たされました。
※「小田城は我らに降るとのこと この戦は、我らの勝ちのようだな」
※1594年5月、佐竹家は滅ぼされました。うむ。とりあえず北条に横取りされなくてよかったわい。
しかし、その代償として、義隆は新たな敵をつくることになりました。大崎家の歩む天下への道には、何となく嫌な雲が立ち込めてきたのでした。