【大崎家の野望】その10

1591年6月、上杉家は大崎家と伊達家の戦に介入します。以前は大崎家に協力した上杉家ですが、今回は伊達につきました。

上杉家家老・直江兼続は米沢城を抜け、大崎家臣・柏山明久が攻める杉目城へと向かいます。

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※昨日の友は今日の敵。戦乱の世は、慌ただしい。

 

杉目城を攻略中の大崎軍は面食らいます。大崎家としては上杉家と争うつもりはありません。当主・義隆は公家をたよって上杉家と停戦します。

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上杉家と停戦してほっとしたのもつかの間、今度は北方の南部家が大崎領・胆沢城へ出陣。手薄となっていた胆沢城は包囲され、そのまま落城しました。

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※城内に兵は居るものの、出陣する武将が居ない。一応救援の兵を出したが、かなわずに撤退。胆沢城は九戸実親、南部利直に包囲されて落城してしまう。

その影響は、思わぬところに現れます。今まで大崎家に付き従ってきた国人衆の支持が一気に低下。これにより、大崎家に従う国人衆は黒川晴氏のみとなりました。

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※付き合いの長かった岩清水衆も、当家への姿勢を改めた。さすがに先の決戦でミサイルとしたことは恨まれても仕方ない。

 

合議制に支えられてきた大崎家にとってはまずい展開となりましたが、優先すべきは伊達家の攻略です。胆沢城は一旦あきらめ、伊達攻めを続行します。大崎軍は決戦で勝利した勢いのまま、伊達領・亘理城、丸森城、杉目城をあいついで落城します。

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※亘理城と丸森城は、先の決戦中に弁当を食べていた柏山明長が攻略した。これにより弁当の件は不問となった。

 

これで伊達家の領地は米沢城と相馬中村城の2つとなりました。この戦を経て、伊達政宗は非常に苦しい状況へと突き落とされます。

1591年8月。義隆が伊達家に追い打ちをかけようと相馬中村城へと進軍。しかしその最中、佐竹家から使者が到着します。その使者は、伊達家との停戦を求めるものでした。

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※佐竹義重「伊達家との戦を今すぐやめよ 聞かぬのであれば、覚悟していただく」 義重ってほんと鬼。

大崎領内も戦に疲弊していたため、義隆はこの要求を飲みます。この時、佐竹家は26000を越える兵力を保持する勢力。今後の展開を考えれば、佐竹に恩を売っておくことも得策です。佐竹家の仲介によって、大崎と伊達は6ヶ月間の停戦状態となりました。

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※奥州最強を誇った伊達政宗も風前の灯となった。

 

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