【大崎家の野望】その6 辛抱の息吹

葛西家との争いを制した大崎家は勢力を拡大しましたが、旧葛西領は戦の影響で疲弊していました。大崎家当主・大崎義隆は、灌漑整備を採用して領地の再開発を急ぎます。

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その間、奥州では膠着状態が続いていました。

 

 

1588年9月。およそ4ヶ月の均衡を破ったのは伊達家でした。伊達家は陸前の兵を動員して相馬領・相馬中村城へと侵攻を開始。様子を見ると、その主力は伊達成実が率いる利府城の兵力のようです。

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利府城は当家が狙っている主城です。当家は伊達家が侵攻している隙を突き、利府城の攻略を画策。領内から進軍を開始します。

しかし、米沢城から出陣していた伊達政宗が利府城の防衛に参加。大崎軍はその堅い守りに阻まれます。さらに伊達成実が反転し利府城へと戻ってきたため、大崎軍は撤退。利府城攻略戦は失敗に終わりました。

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※攻城会戦を開こうかとも思ったが、伊達政宗の防衛を退けるのは難しいと判断。夜襲を受ける危険もあったため、ここは思いとどまった。

一方、伊達家は相馬中村城の攻略に成功。勢力を拡大しました。ふたたび伊達家が勢いを吹き返す形となり、大崎家にとっては面白くない流れとなりました。

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独力での利府城攻略が難しいと考えた大崎義隆は、越後の上杉景勝へ接近をはかります。しかし、上杉家の当家に対する外交姿勢は”敵視”。まずは両家の緊張状態を解消しなければならないので、義隆は商人から家宝「日本大文典」を購入、景勝へと贈り、一応の信頼を得ました。

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※「まずは受け取っておくが 油断はできぬな」 義隆は思い切り警戒されていて、景勝は何か嫌な虫を見たような顔をしている。従属勢力の独立にきびしい世界。

また、岩代の蘆名家とも接近し、伊達家を牽制しました。

 

それからまた、1年ほど動きがありませんでした。大崎領内では兵力が回復し、具体的な利府城侵攻を考え始めます。しかし、この時点で伊達家の兵力14692。当家は兵力5943。倍以上の開きがあります。攻略を成功するには心もとありません。

そこで1589年12月、大崎家は政策「合議制」の実施を決めます。合議制は国人衆の権利を認めることで、援軍兵力を増やしてもらおうという政策です。兵力不足を国人衆の力で補うことにしたのです。

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※この施策により、国人衆による援軍の見込みは3700→5550に増加した。「創造」「中道」の武将は忠誠が下がるが、保守武将ばかりの大崎家には問題なかった。

 

義隆としては上杉家・蘆名家の援軍をあてに、利府城を攻略する算段です。ところが、上杉家の態度は敵対へと変化していました。援軍を送ってもらえるかは微妙になりました。

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※敵視の状態でも援軍をもらえるのだろうか。もし援軍を送ってもらえなければ、おそらく国交断絶になってしまう。そして大崎家は独立から2年たったのに相変わらずどの勢力からも敵視されている。時が解決してくれない問題もあるのだ。

 

同月、膠着状態に焦る義隆は、上杉家に援軍を要請。大崎家再興を願う義隆、必死の懇願に心動かされたのか、単に伊達家が邪魔だったのか、上杉景勝は援軍を承諾。およそ7500の大軍が伊達領・米沢城へと出陣しました。

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※上杉家は大崎家へと援軍を派遣し、「愛」とデカデカと掲げた兜をかぶった三十路の武将・直江兼続がその先陣を切る。何なのこの人……。さすがは義の国(?)。

 

当家はそれに合わせて領内から利府城攻略の兵4600が出陣。第二次利府城攻略戦が始動しました。

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