1587年5月、大崎義隆の娘、文が髪結を終えました。義隆は、文を武将とすることを決めました。
※文は美しい大崎家の娘で、なんかやけに武勇が高く、武将を叱咤することを喜びとするサディストでもある。
大崎家は伊達家を撃退し、まがりなりにも独立を果たしました。伊達家は思わぬ大崎家の反撃を受けて兵力を喪失。奥州の諸勢力は、脅威である伊達家が兵を失ったことで動きが活発になりました。
蘆名家は小峰城を攻略。白川家を滅亡させ吸収します。また、相馬氏が伊達領となっている丸森城の奪還を目指して出陣。しかし、これは最上家の援軍により撃退されました。
※最上家の援軍がなければ、丸森城は落城していた。この動きは当家としても歓迎できるものである。
一方の大崎家中は国人衆の懐柔などに費用がかさんで金が不足。兵もなく、また、大量の兵糧を消耗したことにより、身動きのとれない状況が続いていました。その辛い財政の中でもほそぼそと朝廷への工作を続けます。
そして3ヶ月が経過した1587年7月、ふたたび伊達成実が大崎領・中新田城へと侵攻。伊達にくみする国人衆も合わせ、2000の兵が中新田城下へと詰め寄ります。
当家は領内から絞りだした900の精鋭を中新田城下に集結。そこに高清水衆600の兵がかけつけ、大崎家の防衛部隊は1500の兵力となりました。
一栗放牛ら、防衛部隊は中新田城下で会戦を開き、伊達成実を相手に奮戦。撃退します。
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※文様のありがたい叱咤によって攻撃力を増した大崎家は、伊達成実を何とか撃退した。
この戦で南条隆信は伊達の重臣・亘理重宗の捕縛に成功。重宗は義隆の説得に応じて寝返りました。彼は伊達を支え続けた亘理氏の当主です。
※こんな重臣が寝返るとは、伊達家中で実績の伴わなくなった政宗の影響力が低下している証拠だろう。伊達家の内部はガタガタであることが予想できる。
その3ヶ月後、10月。大崎家は葛西領・寺池城へと侵攻を開始。佐沼城から南条隆信が、名生城から亘理重宗が出陣します。
伊達・最上の動きが気になりますが、両家も疲弊しているようで援軍を派遣しません。
その攻略は順調に進み、1588年1月に寺池城は落城しました。
伊達家は寺池城の落城直前で、一度、利府城から寺池城へと援軍をだそうというそぶりをみせます。しかし当家は中新田城から700の兵を出陣して陽動し、その動きを阻止しました。
※陽動部隊に踊らされ、利府城へと帰還する伊達成実隊。小泉城からは片倉小十郎も警戒の兵を出陣していたが、さっさと自分の城に帰ってしまった。
その後、大崎家は寺池落城の勢いをそのままに、胆沢城へと侵攻を開始。葛西家は斯波家に援軍を要請して対抗しますが、大崎家・南条隆信らはその軍勢を蹴散らして胆沢城の攻略に成功します。
1588年4月、葛西家は滅亡し、大崎家に吸収されることとなりました。
※大崎家と葛西家の長き因縁にも終止符が打たれ、大崎家中は喜びにつつまれた。しかし、旧・葛西家臣には不満を抱いているものが多く、義隆はその対応に追われることになる。
大崎家は葛西家の吸収によってひとまず収入が安定しました。次に狙うのは陸前の統一。攻略の目標は、伊達成実が守る伊達家の本城、利府城です。