【扇谷上杉家の野望】その13 さらば憲政、悲しき鉄槌

1543年2月、反・上杉連合の結成に対抗する、親・上杉連合が結成されました。しかし、親・上杉連合に加盟する勢力はなく、このままでは扇谷上杉家の体面が保てません。

扇谷上杉家当主・上杉朝興は大田原資清のすすめに従って、長尾家を親・上杉連合に誘いこみます。

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※為景「うむ、よかろう。我らも親上杉連合に加盟し、共に伊達家を討つ」

 

連合の結成と同時に、山内上杉家は3500の兵を率いて当家・岩付城へと侵攻。

さらに北条家が河越城に向けて出陣します。その数、10700。これは北条家の総力で、どうやらこの合戦に命運をかけているようです。

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※「我らの河越城を目指し総勢10700の敵が攻め寄せてくるとのこと」

扇谷上杉家はそれに対して、上杉朝定を総大将とした房総半島の兵力を手薄になった伊豆・韮山城へとさしむけます。房総半島の軍は相模湾を超えて、奇襲を仕掛けました。

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※韮山城は守備兵が少なく、難なく包囲することができた。

韮山城に奇襲を受けた北条家は、あわてて北条氏綱隊、北条綱成隊ら河越侵攻部隊を反転。韮山城への援軍に向かいますが、その路を北条高広(きたじょう)、土岐為頼らが妨害。氏綱は思うように動けません。

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一方、韮山城の包囲は順調。城兵の士気も下がり、落城間近です。その時、今川領内から兵が出陣。不穏な動きに緊張が走ります。しかし、今川家の狙いは、どうやら信濃でした。蒲原城から北上して諏訪領・上原城へと向かいます。

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※信濃では長尾と今川の争いが起きていた。今川家からは今川義元の懐刀、太原雪斎が出陣時、推定10000の兵をひきいており、ひやりとさせられた。

結局、韮山城への援軍はなく、朝定の奇襲は成功して韮山城は落城しました。

 

韮山城の落城後、今川義元も当家への侵攻作戦に呼応して、自ら9000の兵を率い玉縄城へと進軍。しかし遅すぎます。当家は韮山攻めをしていた兵を戻して迎撃。義元隊は四方から挟撃され、壊滅しました。

その後、八王子城を攻めていた江戸忠通が攻略を成功し、北条家の城は小田原城を残すのみとなりました。

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※追い詰められた氏綱は完全に錯乱しており、なぜか兵糧のない状態で富士山脇から登山を開始。富士には飢えた兵の怨嗟の声が響いた。北条早雲もあの世で泣いていることだろう。

しょせん反・上杉連合は、関東からはほど遠い、奥州の伊達家を盟主としたにわかの連合。士気が上がるはずもありません。連携は鈍く、扇谷上杉家の脅威とはなりませんでした。

 


 

ここにいたって朝興は山内上杉家への攻略を開始します。山内上杉家は、兵力4000。関東の覇者たる扇谷上杉家からすると、もはや吹けば飛ぶような勢力となっていました。

まず忍城が落城。その後、国峰城も落城します。最後に残る箕輪城も朝興が包囲し、ついに陥落。

1544年2月、山内上杉家は滅亡しました。

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※呵呵! ふー、歯に引っかかった魚の骨がとれた気分じゃわい。ものども! 憲政を捕らえろ!

しかし、上杉憲政は家臣を残して裏道から逃走。山中に姿をくらまし、その後の行方はしれません。これにより、今市の地に築城し、憲政をイマイチ城主にしようと考えていた朝興の思惑は打ち砕かれました。

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※予定していた城主を失った今市城。まこと、残念な結果であった。

 

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