【扇谷上杉家の野望】その12 杉は枯れず

1541年3月、山内上杉家に動きがありました。様子をうかがうと、どうも古河足利家の従属勢力、佐野家の唐沢山城へと侵攻を始めたようです。

それを受けて、古河足利家は佐野家に援軍を派遣。山内上杉家と古河足利家との合戦が始まりました。

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※山内上杉家からは、現状に対する危機感がまったく感じられない。

北条家はその隙を見逃しません。山内上杉家の動きを確認すると、ただちに小田原周辺から出兵。山内上杉家当主、上杉憲政の居城・平井城へと進軍します。

朝興もこれを好機と見ました。山内上杉家の攻略を当面の目標としていましたが方針を変更。まずは手近な古河足利家と北条家を狙い、状況が落ち着いてから上杉家の統一をはかります。

扇谷上杉家は古河足利領・祗園城、北条領・玉縄城への侵攻を決めました。

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※上杉朝興、朝定らが玉縄城へと侵攻中。その行く手をはばむ里見義堯は牙を抜かれ、完全に北条氏綱に飼い慣らされてしまった。

 

佐野家を攻める山内上杉家の侵攻軍は、古河足利家の援軍、結城政朝に苦しめられて攻略を断念。無理な侵攻で兵を失い防衛がおろそかになった結果、北条氏綱に本拠・平井城を簡単に明け渡すことになりました。

平井城の攻略に成功した北条氏綱は、その勢いのまま当家の本拠・河越城へと兵を進めてきます。河越城は玉縄城への侵攻に兵を動員しているので守備が手薄。氏綱に一時包囲されますが、宇都宮あたりから兵をかき集めて何とか防衛に成功しました。

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※氏綱は強い。しかし、ある程度兵を減らすと鮮やかに撤退した。

 

その後、小田原城に帰城した氏綱は単独で信濃・上原城へと侵攻。小田原の軍勢は、ひとしれず雪深い富士山の向こうへと消えてゆきました。

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※結局、氏綱の侵攻は失敗。武田との同盟が切れるので、さっさと帰ってきたらしい。小田原兵からすると、氏綱の気まぐれで冬の雪山を超えさせられていい迷惑であったろう。

 

当家は河越城の防衛に成功して安心したのもつかの間、古河足利家が岩付城を狙って進軍してきます。しかし、山内上杉家も岩付城を狙っていたらしく、その軍勢が岩付城下で鉢合わせて小競り合いが発生。その間に北関東から兵を集めて、撃退に成功しました。

 

さて、相模では玉縄城の攻略が成功し、その南にある三崎城を上杉朝興が攻略中です。そこに武田家・今川家が北条方の援軍として到着します。しかし、武田家とは事前に同盟を組んでいたので不戦、もう一方の今川家はやる気がなく、1900の兵を派遣するにとどめました。

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※今川家は勢力全体でいえば4万の兵を抱えているのに、これしか援軍を出さない。北条家は今川家に見限られたのかもしれない。

ほどなくして三崎城は落城。房総半島でも万喜城の攻略に成功します。さらに半島の南端にある館山城では北条高広が当家に寝返るなど、北条家は混乱。その勢力は一気に縮小しました。

 

一方、古河足利攻略も順調に進み、1542年8月に古河足利家は滅亡しました。当主・足利晴氏は領内を追放されますが、その後、北条家に保護されて再起を狙います。

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※解放したときには「ありがたい……このご恩は忘れませぬ」と言っていたが、当家と敵対する北条家に身を投じた。このしたたかさには感心する。

 

1543年3月、戦の開始から2年がたち、館山城、久留里城は落城しました。房総半島から北条家の勢力を排除することに成功したのです。

これで北条家の城は、八王子城、小田原城、韮山城の3城のみ。扇谷上杉家は、ついに北条家を追い詰めました。

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※画像は2月なので、まだ館山城は落城していない。北条家は今川家、武田家との同盟が解消。なぜか村上家とだけ同盟しているが、意味のある同盟ではない。北条氏綱、すでに命運尽きたか。

一方の扇谷上杉家は、全国屈指の実力を持つ、関東の覇者となっていました。

 

そんな折、1543年2月、反上杉連合が結成されます。その盟主は、奥州で力を強める伊達家でした。

uesugi1_12_10※「伊達家を盟主として、扇谷上杉家の打倒を目指す反上杉連合が結成されました」 親・扇谷上杉家の勢力は……なんじゃ。儂らだけか。

 

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