1544年1月。衝撃的な事件が起きます。
北条氏綱、死す。
扇谷上杉家にとって最大の障壁であった北条家。その北条家を牽引してきた氏綱の死は、すぐに扇谷上杉家当主・上杉朝興も知るところとなりました。
※逝きよったか……。ふん、この手で切腹させられなかったことは、この朝興、一生の不覚となりそうじゃな。
北条家の家督は氏綱の嫡嗣・氏康が継ぎました。しかし、もはや拠点が小田原城のみとなった北条家に、再起の時が訪れることはありません。
1544年5月。氏綱の死から4ヶ月の後に、扇谷上杉家は小田原城へと出陣。名城・小田原城は非常に堅く攻略は難航しますが、物量にものを言わせて包囲します。
1544年10月。5ヶ月にわたる強行・包囲の後、小田原城は落城。北条家は滅亡しました。
旧・北条家臣は、相次いで扇谷上杉家に臣従します。当主の北条氏康は領地を追放され、長らく無職の道を歩むことになりました。
※「次の戦でも、容赦はせぬ」 たわけた事を言うものだ。……こんな小物を斬ったとあっては名家の名折れ。どこへなりと行くがいい。
ここに扇谷上杉家による北条家の討伐、関東の統一は成り、開始10年目にして上杉朝興の野望は、ついに達成されました。
※最終的に人口、兵数は全国1位。石高は大内家に次ぐ2位となった。
目標だった北条家の滅亡を達成したので、大乱成就_私と誰かの野望の『扇谷上杉家の野望』はこれで終了です。
ここまで読んでいただいた方、いらっしゃいましたらお疲れさまでした&ありがとうございました。
そのうち、感想を書くかもしれません。
---以下小芝居。
悲願を成就した朝興は、政務をほっぽり出して常陸・小田城下の湯治場でゆっくりしていた。
「あー生き返るのう。しかしやれやれ、此度の北条討伐には骨が折れたわ。桃栗三年柿八年、杉はしぶしぶ十年余りというが、そのとおりじゃったのう」
「父上、そんな諺はございませぬ。それより、そのようにぐったりしている場合ではありませぬぞ。反・上杉連合の盟主・伊達家が当家を狙っておりますれば」
朝興「あんな辺境から、この関東に攻めてくるわけないじゃろ……」
朝定「しかし、『勝って兜の緒を締めよ』とも申します」
朝興「バカもの! そりゃ氏綱のたわ言じゃろうが」
朝定「ははは、これは失敗っ。それでは、この温泉卵でも食べますか?」
朝興「ズズッなんじゃこりゃ。ほとんど生じゃないか。いい加減にするのじゃ!」
朝定「父上、我々はまだその卵のようなものです。地盤はゆるく、いまだ盤石ではありません。杉の巨木には数千年の長きを生き抜くものもあるとか。我が上杉家も、その杉のように末永く繁栄せねばなりませぬ。そのためには……」
朝興「ああ、そうね(チッうるせぇ息子じゃのう。まぁ、こんなうるさいのが当主なら、今後も上杉家は大丈夫じゃろ……)」
---小1時間後。
朝興「おお、資正ではないか。助かったぞ」
資正「……? いや、それにしても良き日ですなぁ。今日は温泉旅行ということで我が愛犬を連れて参りました」
朝興「ゲッ!? バカもの! 獣を温泉に入れるんじゃない! うぅ、何やら目眩がしてきよった」
資正「はっはっは、いい子だ。ワンワンッ。 ---はっ! 殿!? 殿が倒れたぞ! お気を確かに! 殿---!」
果たして今後、扇谷上杉家はどのような足跡を辿るのだろうか。知る由もないが、扇谷上杉家当主・上杉朝興の苦難は形を変え、これからも続くのだろう……。
資顕、憲政、氏綱、佐竹里見など、
いろいろ出てきていろいろやってて面白かった
朝興最大のライバルである氏綱が雪山へ行ってしまうのがシュールでした
このページの3人(朝興、朝定、資正)の小話というのも滅多に見ない気がするので嬉しかったです
お疲れ様でした!
>通りすがりさん
コメントありがとうございます! 書いてる人です。
楽しんでいただけましたら幸いです!
追い詰められた北条氏綱の行動には驚かされたというか……悲しくなりますね^^;
ここまで読んでいただいてありがとうございました&おつかれさまでした! mm
iPadで信長の野望ができるようになったので、いろいろ調べておりたどり着きました。
ほんまに面白いでんなー。自分でプレイせずに読んでますわ
>ネモさん
コメントありがとうございます! 書いている人です。
ここにまでたどり着いてしまったのですね^_^; 褒めていただいて恐縮です。
iPad版、いいですね! 私もタッチプレイを死ぬまでに一度くらいは体験してみたいものです。
読んでいただいてありがとうございました!mm