1579年12月、北条家の滅亡からほどなくして、越後の龍・上杉謙信が死亡しました。
長尾景直がその後任となり、上杉家は長尾家となりました。
当主となった長尾景直は親茂の娘、本山満を娶っており、長尾家と本山家は婚姻同盟の関係にあります。
しかし、親茂は長尾家が強い影響力を持っていることを危惧。何とか隙を見て攻撃の契機を探っていました。そして、伊達領・塩生城の攻略の際に長尾家の援軍が早々に引き上げたことをこじつけて、長尾家との同盟を破棄しました。
それを受けて長尾家は反本山連合を結成します。周辺国では本山家への不信感が強く、その影響もあって南部、六角を除いた全ての大名家がこれに同調しました。
本山家はこれにより目下の敵を確認し、武力による反本山連合の屈服を狙います。
※1582年5月、長尾家は反本山連合を結成。本山家は、関白であり征夷大将軍でもある本山親茂に逆らうものは、全て東夷。と位置づける強引さで天下統一を狙った。
反本山連合を一気に押しつぶすため、本山家では政策を見直しました。新たに騎馬隊強化、兵役強化をおこない、連合を軍事面で圧倒します。
※創造PKになって、政策は人口が多いほど費用がかかるようになった。本山家ほどの勢力になると、兵役強化は28050/月、騎馬隊強化は11220/月もの費用がかかる。
その甲斐もあって、結成からおよそ1年後、連合の盟主・長尾家は滅亡。反本山連合は解体されました。しかし、親茂は連合の解体後も長尾家に与した勢力を許すつもりはなく、容赦なく領土を切り取っていきました。
※「本山親茂を盟主とする親本山連合は、標的としていた長尾家をついに滅ぼした」反本山連合は、こうして終焉の時を迎えた。ちなみに親本山連合は、本山家とそれに従属している六角家だけである。さみしい。
その間、本山家中では西園寺実充、土居宗珊ら宿将が相次いで病死。土居清良、安芸国虎らが残っていますが、四国勢もなんとも寂しくなってしまいました。しかし、彼らは数々の戦場を経験するうちに、優れた武将となっていました。
※当主・本山親茂。統率77/武勇82/知略71。武将としては一流とは言えないかもしれないが、よくぞここまで成長した。
1584年1月、最上家が滅亡したのを機に、残す東北の勢力は南部家のみとなりました。
少しさかのぼり、反本山連合解体の直前。親茂が伊達領・小泉城を攻めていると、北方から軍勢がやってきました。南部家が伊達の援軍として駆けつけてきたのです。これにより、南部家も討伐の標的となっていました。
親茂は直轄地・十河城の土居清良に南部家討伐を下知。ついに、本山家の天下統一も最終局面を迎えました。