【本山親茂の野望】その3 傍流、大河に至る

1566年5月、本山家の将、吉川元春は毛利家最後の城である山吹城の攻略にあたっていました。元春は島津の援軍に苦しめられますが、親茂は朝廷に島津との和解の仲介を請願。和解によって島津の援軍を失った山吹城は落城し、毛利家は滅亡しました。

motoyama3_3_1※吉川元春が毛利元就を下した。元就は息子に「他愛もない……」と言われてかわいそう。

島津との停戦状態のあいだ、更なる勢力の拡大を目指して近畿周辺の攻略に集中。軍団長の西園寺実充、三好義賢に武田領・観音寺城の攻略を命じました。

本山家による観音寺城の攻略中、北近江に勢力を持つ浅井氏の当主、浅井長政は武田家への援軍として出兵。乱戦の中、青鬼・籾井教業によって討ち取られました。

motoyama3_3_2

当主を失った浅井家は庶家の浅井亮親を当主に立てますが、混乱の渦中に有りました。本山家はその混乱に乗じ、浅井家を吸収。北近江の支配権を得ました。

次に狙うのは北陸・越前の朝倉家ですが、北陸攻略を盤石にするため、上杉家との婚姻同盟を締結しました。

motoyama3_3_3※さすがに政景に嫁がせるのも何なので、一門の長尾景直に輿入れした。もちろん、婚姻同盟を結んでも軍神様の言うことは「義のために云々」と、相変わらずである。ちなみに満姫は六角家からの養女。

 

さて、音羽の戦いに敗れて勢いの無い武田家に、一気に追い打ちをかけます。西園寺実充軍団が観音寺城を攻略。次いで武田信玄の居城、稲葉山城を狙って、岸和田城の福留親政、雑賀城の鈴木佐太夫が出兵しました。

更に、親茂はその攻略に際して織田信長に援軍を要請しました。

motoyama3_3_4※前回の貸しがあるので(?)、一応受けてくれた。裏で何を言われているのかは想像に難くない。

稲葉山城は周辺の城がすでに織田家の手中にあり、武田家は救援の部隊を出すことが難しい半孤立状態です。武田信玄は稲葉山城1万の兵を率いて本山・織田の連合軍に対抗しますが、包囲に耐え切れずに壊滅。

motoyama3_3_5※こんだけ囲まれても「勝ちは見えた!」と強気な武田信玄。信玄の戦闘中は「風林火山」!「虎」!「背水」!など、色々なテロップが流れて愉快である。

1566年11月、稲葉山城は落城しました。

 

その落城の直後、本山親茂は筒井順慶から報告を受けます。朝廷より征夷大将軍に任ずるとの宣旨を賜ったとのことでした。

ついに、親茂は征夷大将軍を名乗ることになりました。

motoyama3_3_6※順慶から一方的にまくしたてられる親茂。武力にものを言わせて力をつけてきた本山家は、ついにここまで来てしまったのである。ともあれ、本山幕府を開いてめでたい。

motoyama3_3_7
※「これより征夷大将軍を称する 今まで以上に励むつもりだ」 と言う親茂の表情は硬い。武力による全国統一を成し遂げてもらうので、もう少し頑張ってもらうことになる。

 

そして1567年1月、島津討つべし。周防に向けて島津討伐の兵が出陣しました。親茂も自ら兵を率いて、四国から周防の地へと向かいます。

motoyama3_3_8※島津家は強敵だが、いつかは戦わなければならない相手。頑張れ、本山親茂。その顔が晴れる日はやってくるのか。

 

広告