主な出来事
北九州で大きな戦が起きていたころ。尾張でも大きな動きがありました。今川義元が猛威をふるい、織田家を併合。さらに美濃・斎藤家をも飲み込む勢いです。
※つぎつぎと美濃尾張を攻略していく今川義元。8300の兵をひきいる義元の母・寿桂尼も相当やばい。
この勢いなら今川家の上洛も間近か。
さらに、南九州では種子島にて戦が起きていました。島津義弘と肝付兼続が決戦。肝付兼続は城主になっていた島津義弘を下し、赤尾木城を攻略しました。
さて龍造寺家に宣戦布告した大友義鎮。鹿江の決戦の結果――
大友家が勝ちました。順当です。
秋月の龍造寺領侵攻
国力の乏しい龍造寺家にとって、全兵力をかき集めて挑んだこの決戦での敗北は痛恨でした。こうなると立ち直ることは難しそうです。
龍造寺の敗戦をみて、秋月家もいそぎ侵攻開始します。また、この侵攻にさきがけて、秋月家は方策『精鋭足軽』を採用。足軽のレベルが2になりました。
1558年10月、当主・秋月文種みずから秋月城から出陣し、獅子ヶ城へと兵をすすめます。龍造寺側からの抵抗もないまま包囲は完成しました。
ひとつずつ攻めるのでもいいのですが、さらに侵攻速度をあげるためにもうひと軍勢欲しいところ。この戦で一気に龍造寺を滅亡に追い込むつもりです。
周辺で援軍を頼めそうな勢力をみて、まず同盟国・大内家に援軍要請します。さらに確認すると、どうやら大友家からも援軍が期待できます。
※敵視されているために外交交渉ができない大友家だが、援軍要請は通りそうだ。援軍として日隈城、岡城を借りた。敵の敵は味方ということなのか。
援軍を要請すると、大友家は秋月家への支援を表明。秋月陣営につきました。
こうして大内・大友の援軍をつかって伊万里城の包囲を開始。城兵の士気の下がり具合を見ると、1ヶ月くらいで伊万里城は落城しそう。
いっぽう獅子ヶ城を攻める秋月文種のもとには、鍋島直茂が講和の使者として訪れていました。提示された条件は兵糧8600の譲渡ですが、もちろん拒否。
※小首をかしげる鍋島直茂。(はぁ? マジかよ……)と内心で悪態をついていそうだ。
文種はそのまま獅子ヶ城を攻略、南下。龍造寺家最後の所領・大村城に向かいました。
そして大村城も包囲。
先の決戦で力尽きたのか、これといった龍造寺隆信の抵抗はありません。城から打って出ることもなく、けっきょく龍造寺家は秋月家と決戦をしないまま滅亡したのでした。
龍造寺滅亡
1558年1月、大村城の落城によって龍造寺家は滅亡。秋月家に吸収され、龍造寺隆信、鍋島直茂、龍造寺四天王らも秋月家の家臣となりました。
各城主
- 秋月城→秋月文種
- 立花山城→秋月種実
- 勢福寺城→江上武種
- 獅子ヶ城→筑紫惟門
- 伊万里城→龍造寺隆信
- 大村城→神代勝利
戦後処理、堕ちた五州太守
さて、家臣となった龍造寺隆信はいくつか家宝を持っていました。とりあえず家宝を取り上げることにします。家宝を没収すると家宝がもらえますが、その武将の忠誠は下がります。
龍造寺隆信から取り上げたのは三好粉吹(茶器)です。茶器は大名が持つと全ての配下武将の忠誠が上がるという大名がもつべきもので、隆信にはもう必要ありません。
※「三好粉吹か……これに見合う働きをする者が現れるまで預かっておくとしよう」(微笑)
※「決して忘れませぬぞ」と家宝を取り上げられ悔しそうにしている龍造寺隆信。忠誠も11→1(実際には11→7だった)に大きく減少した。
隆信はさらに片鎌槍も持っていたので没収です。
ここまでして、さすがにやり過ぎた感じなので片鎌槍は返してあげることにしました。
すると忠誠は11まで回復。元通りです。
※三好粉吹を没収されたことをすでに忘れているのだろうか。朝三暮四の猿よりひでぇや(?)
気の毒になったので龍造寺隆信は伊万里城主としました。彼の一門衆もついでに伊万里城に派遣。城主にした結果、赤かった忠誠は黄色に変化しました。
※「主はなかなか良い家宝をお持ちだ」って、もとはお前の家宝だよ……。
松浦・平戸城の攻略
さて龍造寺を攻め滅ぼした秋月家。続いて端っこにある松浦家を狙います。
秋月種実を総大将とした8000の兵を差し向けて平戸城を攻略。一度の決戦で決着がつきました。1558年5月、秋月家は松浦家を滅亡させ勢力を取り込むことに成功します。
方針の提案
秋月の傘下に降った松浦当主・松浦隆信は評定で『南蛮貿易』を提案。南蛮寺の多い秋月領はさらに発展してゆきます。
※南蛮寺のある九州で活きる方策。逆に九州以外ではあまり活かしどころがなさそうだ。
今作では方策が提案されるのは色々な条件があり、ある『個性』(特性のようなもの)をもった武将が一定数になったり、特定の武将を家臣にすることで提案されることもあります。たとえば『犬伝令』は太田資正を配下にすることで提案されたりします。松浦隆信はそのまま平戸城主に任命しました。
1558年の収穫期
1558年9月。今年も米の収穫期がきました。
この時期、島津家は肝付領に攻め入ります。種子島で勝利した肝付兼続も、真正面から島津を相手にせねばならない国難を迎えていました。
そして、やはり大友義鎮が動きはじめました。四国方面への領地拡張に意欲を示し伊予・河野家の攻略に着手。豊予海峡を渡りはじめます。
この侵攻は31900もの大軍を率いる大規模なものになりました。
同月、大友義鎮は西園寺家にも宣戦布告。さらに一万田鑑実を総大将に13800の兵が集結。
※貪欲に領地拡大を目指す大友義鎮
大友家は四国侵攻に45000もの兵を動員したことになります。その影響で、九州の守りは捨てたも同然の状況になっていました。
大友領攻略の好機、あるいは破滅への序章
大友家が隙を見せました。秋月家が攻め入るにはこれ上ない好機といえそうです。戦をしかけるとしたら、目標は大友領の分断。日隈城の攻略です。
日隈城を攻略すれば、大友領を村中城、柳川城の肥前方面と、府内館の豊後方面で分断することができます。ここを攻略したあとには、ゆっくりと肥後方面から攻めていきます。
ただし問題があります。大友家は大内家と同盟を結んでいるので、大内家も敵にまわすことになりそうです。ただ南方・島津家は味方のままと見てよさそうです。
勢力規模いえばおおよそ秋月(人口8万6千)国力12位、大友(人口15万)国力7位、大内(人口14万)国力11位、島津(人口12万5千)国力8位といったところ。この戦が秋月・島津、大友・大内の連合での戦いとなると見た場合、人口では10万弱ほど負けています。
11月、大友義鎮ひきいる31900は、河野通宣を海上決戦で打ち破り、四国へと上陸。
しかし西園寺を攻めていた一万田鑑実は半分程度の戦力だった西園寺実充にまさかの大敗。
※土井清晴の知略が冴え渡ったらしい。そしてここのところ、ずっと鍋島が報告してくる。
この結果で決断しました。
大友家へ宣戦布告
秋月家は大友家に宣戦布告。勝負に出ました。
宣戦布告をすると、やはり大内家は大友家に与しました。島津家は秋月陣営です。
※秋月など攻め滅ぼしてくれよう、と、大内義長はかなりご立腹の様子。
秋月家は秋月種実を総大将とした16400の軍勢を編成。鍋島直茂、龍造寺隆信らをしたがえて日隈城へと進軍をはじめます。
さらに島津家へと援軍を要請します。島津家は肝付攻めをしているのであまり余力はありませんが、援軍をあわせて執行種兼を中心とした6800を編成。大友領の最西端・肥前鹿島城を攻めさせました。
いっぽう四国を攻めていた大友義鎮は河野領・大洲城、黒瀬城の攻略を終えていました。義鎮は秋月種実の動きを察知し、九州にとってかえします。
1559年1月になると、大友義鎮軍は日隈城を包囲中の種実隊に接近。秋月家と大友家との決戦のときが迫っていました。
中々熱い展開ですな…
次も楽しみにしてます!
>名無しさん
コメントありがとうございます! 書いてる人です。
一緒に楽しんでいただければ幸いです。
更新もほどほどに頑張ります!
面白いです。
時折、※の後のコメントにセンスが光ってます。
>匿名さん
コメントありがとうございます! 書いてる人です。
正直、書いていてどう受け取られているのか心配になることもあります。
励みになりました!