【三浦貞広の野望2】その8 実なき兵乱を

1573年5月、別所長治が岡山へ侵攻。

この報をうけて三浦家の備中松山城代・牧良長は出陣。1300の兵をひきいて岡山城の救援に向かったのでした。


※貞盛、元範を副将として出陣。岡山城で待つ弟、牧国信を救うことができるか。

 

 

さて毛利家からの援軍・清水宗治は別所長治の策略にはまって備中高松城へと撤退しました。

しかし入れ替わるように亀迫城主・宍戸隆家が岡山城に向かいます。

 

この動きに合わせて、岡山城から牧国信が出陣。到着した牧良長とともに、別所長治を挟撃します。


※牧良長、牧国信兄弟が岡山城で挟撃をしかけているが、完全に押されている。


※別所長治の騎馬突撃。挟撃しているこちらの方が被害が大きい。けっきょく牧良長は退却。さすが別所長治だ、挟撃されてもなんともないぜ……。

 

この戦いで兵を喪失した牧良長はふたたび撤退。しかし、毛利の助けもあり、どうにか別所長治を撃退したのでした。


 

しかし三浦家が安心したのもつかの間。翌7月。次の報告がやってきます。


※我らの岡山城を目指し総勢5608の敵が攻め寄せてきます!

 

見ると浦上宗景が兵を率いて岡山に向かっています。当主自ら、岡山城奪還に乗り出したのです。

 

別所家との戦闘により、三浦家にはあまり余力がありません。浦上宗景との戦いは、ほとんど毛利家の援軍に頼ることになりました。

1ヶ月に及ぶ岡山城下での合戦は、毛利軍の勝利に終わりました。浦上宗景は兵を失って撤退。居城・天神山城へと退却します。


※完全に領内の防衛を人任せにするという愚行(?)

 

しかしこれで終わらせません。牧良長は浦上宗景を天神山城への退路、両宮山で待ち受けます。

襲撃を受けた宗景隊はなすすべなく壊滅しました。


※げぇっ! 牧良長! 敵部隊を壊滅させると多くの経験値を得られる。牧国信も岡山城から飛び出して追撃しようとしたが、間に合わなかった。


※牧良長はこの経験で「捨て身」を習得。非道の手段によって更なる修羅へと近づいた。

 

これでひとまず岡山城を狙う敵対勢力はなくなります。こうして三浦家は一連の戦いを制し、あらたに岡山城を手中に収めたのでした。

この戦の功績により、牧良長、三浦貞盛らが侍大将に昇格します。

 

1573年9月には次女・三浦珠が髪結いを終えました。


※珠12歳。

珠を嫁がせる先はだいたい決めてあります。今、最も勢いのある織田家です。

 


 

さて、戦の終結からさかのぼること2ヶ月。

 

1573年7月。

足利義昭が挙兵。反織田連合が結成されました。


※義昭の不満が爆発。しかし足利家は武将が義昭ひとり。すぐに滅ぶ運命である。

※信長包囲網。赤い「連合」文字が反信長勢力。

連合は結成されましたが、織田家の目は西に向いています。9月になると播磨の別所領・三木城の攻略に乗り出していました。

 

さらに翌月には播磨の北、丹波・波多野家を滅亡させました。

織田家が中国に入る前に、彼らと同盟を結ぶ必要があります。三浦家は織田信長に家宝“芦屋釜”を献上。三浦家当主・貞広みずから外交工作をすすめます。

その甲斐もあり、年末には交渉がまとまります。三浦家は織田家と12ヶ月の同盟をむすぶことに成功。さらに工作を続け、いずれ婚姻同盟まで持ちこむつもりです。


※貴様には先が見えているようだな

 

1573年12月、いっぽうの中国地方では三好家がふたたび本州上陸を目指して出兵していました。そのねらいは、浦上領・下津井城と長船城です。

浦上家はどうにか撃退しますが、この戦いによって大きな打撃をうけました。

 

三浦家は先の戦からおよそ5ヶ月。傷はいえています。ここに浦上領を切り取る好機がきました。三浦貞広は浦上領への出陣を決めます。

ねらうのは浦上傘下、宇喜多直家が城主をつとめる下津井城です。

 

この戦では三浦貞広、牧良長、牧国信、上野隆徳らが出陣。下津井城攻略に乗り出しました。

迎撃に出た宇喜多直家は最初こそ善戦しますが、三好家との戦いで疲れ果てています。牧兄弟の攻撃にたえきれず、あっけなく敗走。

 

宇喜多隊を破った三浦軍はそのまま下津井城へと兵をすすめます。

敵方には援軍を出す様子はありません。頼みの当主・浦上宗景も援軍が出せません。三好家との戦いでかなりの兵を失っていたのです。

 

もはや勝敗は決しています。包囲をはじめてからわずか5日ほど。下津井城は三浦家に降伏しました。

下津井城は宇喜多家最後の所領。これで宇喜多直家は領地を完全に失うことになりました。


※宇喜多家が没落。これで宇喜多直家の忠誠は更に下がることだろう。

 

 

浦上家も残すは3城です。攻略の成功が見えてきました。


※この時点で浦上家の領地は画像右の三城。天神山城、長船城、三石城である。

 

そんな折、貞広のもとに衝撃の報告が舞い込みます。

宇喜多直家が浦上宗景に勝利、独立を果たしたのです。

 


※「ようやく、私は誰にも頼らず、縋らず、己の足で立つことができた」……?


※「手段がどのようなものであれ、今、宇喜多直家は戦国大名として自立した」この状況下でさらっと勝利するとは、さすがは宇喜多直家である。
ちなみに史実では「備中兵乱」、「天神山城の戦い」(wikipedia)を経て力を手にしている。

 

1574年4月。宇喜多直家は浦上宗景を国外へ追放。こうして浦上家は宇喜多直家に乗っ取られ、宇喜多家となったのでした。


※戦国大名・宇喜多直家の誕生

 

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【三浦貞広の野望2】その8 実なき兵乱を」への2件のフィードバック

  1. 羽柴秀吉

    (祝)下津井城攻略
    おめでとう
    ございます。

    宇喜多家攻略も
    時間の問題ですね。

    三浦家の更なる
    飛躍を御祈り申し上げます。

    私も上様から.中国地方方面軍団長に任命され
    播磨.因幡.などで
    悪戦苦闘の毎日です。

    三浦殿の領地にも.もう暫くしたら.お邪魔させて予定です。
    その時は.良い返事を期待しています。
    この.戦国乱世.上様の縁戚と言えど安心ではありませんぞ。
    織田家中国方面軍団長。。羽柴秀吉(本当にすいません。戦国立志伝.木下秀吉プレイで軍団長になった.つもりで秀吉の立場.視点から書き込みしました。)
    秀吉なら黒官ばりの満面暗黒笑顔で.三浦家に調略を仕掛けてくる気がします。

    返信
    1. 木坂万倉 投稿作成者

      >羽柴秀吉さん
      コメントありがとうございます! 書いている人です。

      こんな手紙を受け取った日には、胃の痛みが続きそうです。なにとぞご容赦を……!

      中国地方手前で織田軍の動きが鈍りはじめました。むしろ早く来て欲しいです。どうも姫路城前で停滞しています。
      三浦家は現在、急成長してのガタガタ体制なので、調略を受ければひとたまりもないと思います。おそらく、秀吉公の思うままの展開になるでしょう。

      侵攻をやめたのも秀吉公の策略なのかもしれません。。ああ、胃が痛いので、なにとぞご容赦を。

      返信

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