白地城では茂宗が城門を破壊しており、落城も時間の問題です。三好領・伊沢城から2300の援軍が来ましたが、兵を率いる伊沢城主・小笠原成助も既に本山家と内通していて、ただ傍観するだけです。
1556年11月、白地城は茂宗の激しい強行攻撃の末、落城しました。
白地城で激戦が繰り広げられていたころ、別の三好領でも戦いが巻き起こっていました。
本山方の援軍である鈴木家・鈴木佐太夫は勝端城の兵を一掃し、強行を開始。そこに安芸国虎が安芸城から南の山道を抜けて、支援に向かいます。浦上家は、田尾の戦いで部隊が壊滅し兵力が不足している十河城を攻撃。三好は三方からの攻撃にさらされる形となりました。
ちょうどこの頃、細川家との同盟期間が終わりました。それを機に四国内の細川領である天霧城、引田城へと進攻を開始。讃岐全土の占領を目指します。
畿内の岸和田城、有岡城あたりから援軍が来るかと思っていましたが、三好は既に四国を諦めたようで、援軍を派遣する様子はありませんでした。もちろん細川も同様です。
もはや疲弊しきり、兵力の残っていない主城・十河城、勝端城が相次いで落城。
※平岡房実が十河城を攻略。彼は元河野家臣で、私の中で面白い顔に定評がある。言葉遣いも面白いし、茂宗との相性もいい。
そこからは、ドミノ倒しです。援軍の見込みを失った伊沢城、天霧城、引田城が次々に本山家に投降。勝端城も落城し、四国のほぼ全てが本山家のものとなりました。
そして、最後に残った桑野城が陥落。
※って、お前が落とすのかよ! 最後の最後で新参の村上武吉に持って行かれました。
1557年5月、ついに本山家による四国の統一が成りました。
八年前、支城を統べる豪族の一人に過ぎなかった本山茂宗は、美しい四国の清流の路を駆け抜け、その全てを手にしたのです。
※やっぱり家臣団の最高能力は長宗我部由来ばっかりじゃないか!
ちなみに史実では、本山茂宗は1555年2月、この年には既に死亡しています。このプレイでは四国統一を成し遂げる執念で生き残ったのでしょう。
プレイの目標だった四国統一を成し遂げたので、ここでプレイは一旦終了とします。ここまで読んでいただいた方が、もしいらっしゃるなら、お疲れ様でした。次の頁では感想を書きます。