【三浦家の野望】その18 備中攻略戦

三浦家による備中侵攻が始まったころ、三浦家と山名家との同盟期間が満了。山名家は三浦家としばらく友好関係にありましたが、影響力を警戒して敵視へ立場を変えました。

miura1_18_3
※三浦家が好き勝手をしてきた経緯を考えれば、そうなるか……。

 

 

それでも、三浦家は山名家と外交工作をすすめていたことで、いちおう同盟交渉ができるほどの信用は得ていました。

三浦家としては備中攻略中に背後を突かれるわけにはいきません。三浦貞久は急ぎ山名家に使者を派遣。6ヶ月の同盟を提案します。

山名祐豊はこれを承諾。さらに備中侵攻を進める三浦家に対して、物資の支援を申し出ました。

miura1_18_5
※「これまでのことは水に流し、これより盟友として、共に歩もうではないか」 八橋城のことはさしおき、名門らしく度量の広さを見せる山名祐豊。

miura1_18_7
※「これを、足しにするとよい」  ここまでくると必死さすら感じるような……。

 

その後、山名祐豊はしばらくすると己斐直久を引きつれて出陣。三浦領を越え、どこかへ向かっていったのでした。

miura1_18_a[1]
※どこまで行くのだろうか?

ともあれ、山名家の後援も受けて、体勢を整えた三浦家は備中の攻略にとりかったのでした。

 


 

 

三浦貞盛率いる備中攻略の部隊は、浦上家からの援軍・宇喜多直家らと共同して備中高松城を攻撃。城下を守る三村家当主・三村家親らを会戦で一掃することに成功します。

miura1_18_d
※三村軍を撃破した。

備中高松城は三浦・浦上連合軍によって包囲されることとなりました。

miura1_18_1
※備中高松城を包囲したところ。左端には毛利元就が兵を出していて不気味である。

 

それから伯耆・羽衣石城から三浦貞久が1600の兵をひきいて出陣。太平山の脇を抜けて、備中松山城を目指します。

貞久は備中高松城の攻略をおえた貞盛とともに備中松山城を南北から挟撃し、一気に三村家を攻め滅亡に追い込むことにしたのです。

miura1_18_2
※備中松山城は耐久6500の堅城。しかし貞久、貞盛、国人・虎倉衆の支援まで計算に入れると、こちらの兵数は6700くらいになり包囲ができるだろうという見積もり。

 

1542年7月、宇喜多直家の助力もあり、わずか1月半の包囲によって備中高松城が落城。三浦家は長年苦しめられてきた三村家の牙城を突き崩したのでした。

攻略をおえた貞盛は貞久の動きにあわせ、備中松山城へといそぎます。

miura1_18_8
※ 今後、高松の民は計画、実行、評価、改善の流れを心がけ、しっかりと自己啓発に取り組むように。

 

ところが、ほどなくして美作・高田城へ敵襲の報が舞い込みます。尼子軍がおよそ6500ほどの兵を動員してきたのです。

 

この侵攻を受けて、貞久は備中松山城への侵攻をやむなく中止。松山城の攻略は貞盛にまかせ、高田城へと引き返すことになりました。

miura1_18_12
※挟撃の計画は破綻してしまった

 

高田城は尼子国久の攻撃を受けていました。貞久は会戦を開いて対抗します。しかし、国久の“穿ち抜け”による強烈な攻撃をうけ、部隊は壊滅。

miura1_18_14
※「敵を押しつぶせ!」と叫ぶ国久に押しつぶされちまった貞久。討ち死にだけはまぬがれた。

 

この会戦の敗北によって、防衛に使える兵は激減して800ほど。しかし、尼子軍の兵数は後詰を合わせておよそ3600。

あわてて金田弘久が八橋城から出陣。1800の兵を出しますが間に合うかは微妙です。

miura1_18_16[1]
※遠いなー

 

ここで備中攻めの兵を高田城に向かわせることもできますが、備中への攻撃の手を緩めるわけにはいきません。毛利家や浦上家が三村家を攻略し、滅亡させるかもしれないからです。

miura1_18_f
※毛利家が兵を出していて怖い。

そうなれば、三浦家は三村家臣団を獲得できません。ただでさえ人手が不足している現状。三村家へのとどめは、なんとしても三浦家がさしたいのです。

しかし、高田城の落城は避けたいところです。場合によっては備中攻略を諦めなければなりません。

 

しかしその直後。意外な展開になりました。

敵の本隊、尼子詮久が撤退をはじめたのです。詮久はなぜか三浦軍と一戦も交えることなく自領へと退却していきました。

miura1_18_17
※800の兵で高田城を守っていた行松正盛は、九死に一生を得た。

詮久隊の目的地、多里城を確認すると、山名祐豊の軍勢が包囲を始めていました。詮久は多里城防衛のために兵を引いたのでした。

miura1_18_b
※なんと祐豊は鳥取からはるばる多里城を目指していたのだ! (大体わかってたけども)。その後、詮久に阻まれて山名祐豊の侵攻は失敗に終わった。

 

さらに山吹城では大内家による侵攻が始まっていました。尼子家は3勢力との戦闘となっていたのでした。

miura1_18_15
※大内義隆も尼子の弱った様子を見て、ようやく重い腰を上げたらしい。でも本人は敗走しているようにも見えるが?

 

 

このように三浦家は状況に助けられました。堅城・備中高松城も三浦貞盛らの強行によって落城。

miura1_18_19
※公文重忠が備中高松城に入城。高松城の兵をひきいて援軍にかけつけた。

 

1542年11月、三村家は滅亡しました。その家臣団は三浦家が取り込み、三浦家による備中攻略は成功したのでした。

miura1_18_20
※三村家は三浦家によって滅ぼされました。親・尼子勢力の滅亡によって、またひとつ尼子家との差が縮まった。

 

 

広告

【三浦家の野望】その18 備中攻略戦」への6件のフィードバック

  1. なみたろう

    久々の更新を楽しく読ませていただきました。

    三村家攻略おめでとうございます!

    統率が高い武将が多い三村家臣団の導入で、貞盛の活躍が減りそうな予感ですが・・・

    ぜひ頑張っていただきたいですね!

    返信
    1. 木坂万倉 投稿作成者

      >なみたろうさん
      コメントありがとうございます!

      久々の更新となってしまいました。読んでいただいてありがとうございます^―^
      あまりに久々すぎて、前回までの内容を忘れていませんでしょうか。私はわりと忘れてしまいましたが、もし内容に矛盾などあったら申し訳ないです。

      三浦家はようやく備中の攻略にこぎつけました。三村家臣団は降りましたが、実はこの時代、三村家の家臣たちはそれほど統率が高くありません。なので貞盛は今後も頑張ります。。

      返信
      1. なみたろう

        先ほどこの時代の三村家を確認してきました。確かにこの時代パッとしませんね~(^_^;)

        でも植木秀長というのほほん系武将を発見しました。

        ちょっと顔がツボりました。

        返信
        1. 木坂万倉 投稿作成者

          >なみたろうさん
          植木秀長の顔を確認しました。
          まったくノーマークだったのですが、味がありますね。どちらかというと、しょっぱめだと思います。。

          返信
  2. 相模原

    お久しぶりです
    更新楽しみに待っていました

    三村家攻略おめでとうございます
    備中の堅城を落とせたのは大きいですね
    尼子への道が開けましたからね
    攻めどころが難しいですけど頑張ってください

    返信
    1. 木坂万倉 投稿作成者

      >相模原さん
      コメントありがとうございます!

      なんと……待ってくださっていたとは恐縮です!
      「三浦家の野望」が完結するまで、これからはあまり間をあけないように更新していきます。。

      備中は堅城で、攻めるタイミングで悩みました。失敗も覚悟していたのですが、なんとかなりました。
      三浦家はこれで三村三浦家となって人材不足の悩みもなくなり、尼子への反撃も近いです。頑張ります!

      返信

コメントを残す

コメントは反映されるまでに時間がかかります(スパム対策のため)。