1599年11月、反徳川連合の盟主・大崎義隆は勝利にうかれ、敵であった徳川家康に所領を与えるという戦後処理をしました。その裏では、北陸の軍団長・四釜隆秀が豊臣家の侵攻をうけて、難しい局面をむかえていました。
隆秀は大崎義隆の独立以来つき従ってきた重臣です。武勇に優れる彼は北陸の小さな軍団を任されていましたが、富山城から始まった北陸軍団は勢力を拡大、今では越前にまで領地を広げていました。
※四釜隆秀はあまり目立っていないが、義隆の信頼も篤い。ところで今気づいたが、拠点13に対して武将10と大変かわいそうな状態だった。
豊臣軍は北陸軍団下にある杣山城を攻め、すぐさま守備兵を殲滅。北陸軍団は城下への布陣を許してしまいます。しかし、杣山城は堅城。周囲には山道しかなく、わりと挟撃をしにくく守りやすい立地です。豊臣軍は行列状態となって、侵攻は思ったより進んでいません。
しかし逆にここを攻略されると、背後は兵を展開しやすい地形なので、兵力の潤沢な豊臣にとって攻略は容易です。北陸軍団は、何としても杣山城を防衛しなくてはなりません。
※杣山城の西にある拠点・河野は当家が設営している。そのためか、豊臣軍はそちらから侵攻することはなかった。しかしこちらが城下で防衛できなかったのは相当痛く、不利な状況である。
はじめ、この行列であれば、兵糧切れが起きてそのうちに撤退すると楽観していました。しかし、豊臣家もそう簡単には諦めません。少しずつ杣山城の兵の士気も落ちていきました。
ちょうどこのころ、大崎家は最上家と婚姻同盟を結びました。
※次女・大崎蔦が最上義親に輿入れ。大崎家と最上家の結びつきは強くなった。
その最上家が上杉家の侵攻を受けて、大崎家に援軍を要請。大崎義隆はこの要求を受け入れ、上杉家と敵対することを決断します。越後では上杉家と最上・大崎家の攻防が始まっていました。
※上杉家とは長年友好を築いており、敵対するのは心苦しいが。いい口実ができた。
※越後の安定を守るため、上杉家も大崎家に臣従してもらうことにした。
一方、東海でも戦闘が激化していて、そちらにも戦力を使っていました。
そういう事情もあって、大崎義隆は四釜隆秀の窮状をわかっていながらも兵力を割くことができません。ひとまず旧徳川家臣・真田幸村らを北陸軍団に配属。防衛につかせることにしました。
四釜隆秀はいったん金沢城に帰城し、その後、真田幸村の副将として出陣。再度、杣山城の防衛に急ぎます。
ところがその援軍は間に合わず、1600年3月、4ヶ月の攻防のすえに杣山城は落城しました。
当然、これで豊臣家の攻撃の手が緩むことはありません。杣山城で補給した豊臣軍は、続いて北庄城、朝倉山城まで攻め入ります。
※藤堂高虎隊が、我らの北庄城に約17500の兵で攻め寄せてくるようです! 北陸軍団にこれを抑える力はない。
その後、幸村隊は北庄城下で藤堂高虎と対峙、合戦で部隊はほぼ壊滅し、窮地に追い込まれます。しかし、真田幸村隊は引き下がりません。
結局、真田幸村隊は北庄城下で壊滅。この合戦で、軍団長・四釜隆秀もろとも捕らえられます。
※わずか38人の手勢で19000の兵に立ち向かう真田幸村。いくら六文銭といっても、この幸村の指揮はひどい。
その後、北庄城も落城。大崎家は何とか隆秀らを救出したいところですが、そのためには藤堂高虎を撃破しなければなりません。しかし、高虎は万を越える兵を率いています。
また、高虎を撃破するためには後詰を合わせて5万以上の豊臣兵を相手にしなければなりませんが、それを打ち破るほど、こちらに割ける兵力はありません。結局、10名の捕虜を抱えた高虎隊を見送ることしかできませんでした。
藤堂高虎隊は長浜城へと帰城し、豊臣家は多賀谷重経ら3人の捕虜を処断。真田幸村ら6人を解放します。
そして軍団長・四釜隆秀は豊臣家に降り、その家臣となりました。
しかし、隆秀はまだ完全に豊臣秀頼に臣従しているわけではなさそうです。豊臣に降ったのは許しがたいことですが、直轄領から援軍を出せなかったためにやむを得ぬ状況だったとも言えます。義隆はすぐに密使を送り、四釜隆秀の説得をこころみます。
隆秀を失ったため、北陸軍団にはあらたに北条氏照が軍団長に就任。しかし、豊臣軍をおさえきれず、1600年6月には金沢城まで押し戻されてしまいました。
はじめまして。あまりの面白さ、そして大崎家で野望を成就するというあなたの「野望」に
ほれ込んでいる通りすがりのものです。
これからも体調崩さぬよう、頑張って下さい。
>花太朗さん
はじめまして。書いてる人です。コメントありがとうございます!
照れてしまいますけれども、楽しんでいただいてなによりです。
ここまで読んでいただいたということは、おおらかな方とお見受けします。
大崎家の野望の今後も、広い心で見守っていただけるとうれしいです。
あたたかいお言葉、ありがとうございます!