房総半島の攻防は終結し、半島内では北条家が安房・上総、扇谷上杉家が下総に影響力を持つことになりました。
※千葉氏は当家に従うこととなった。しかし、当家の力が増したことで、その影響力を警戒する勢力も増えてしまった。
北条家の今後の動きは気になりますが、北の勢力への警戒も必要です。
朝興は、ひとまず北方の警戒に注力することとしました。陸前の伊達家が南下し、下野にまで勢力を伸ばしています。伊達家は18000と、当家を凌ぐ兵力を有する大勢力です。伊達と敵対すると、北条と2方面の攻防となる可能性があるため、得策ではありません。
そこで、伊達家の警戒をとくため、伊達の盟友・蘆名家への接近をはかります。蘆名には以前から根回しをしており、さっそく24ヶ月間の同盟を締結しました。
しかし、伊達家の姿勢は変わりません。依然としてこちらへの警戒の態度を崩しませんでした。
朝興は伊達家と友好関係を築くことをあきらめ、国境の警戒を強めることにしました。当家と伊達家との間には、那須家の勢力があります。すでに北関東における覇者は当家となったので、従属の要求をする使者を出そうとします。しかし、那須家は強情で、当家に従属するつもりはないようです。
このままでは伊達稙宗にいいようにされるのは目に見えています。仕方なく、武力によって従わせることとしました。宇都宮城主・菅谷勝貞らに命じて攻略を開始。
1538年12月、那須家は滅亡しました。
※おとなしく当家に従属しておればよいものを……。一方、その東の勢力・岩城家は当家に従属した。
さて、先の房総半島での戦いによって、北条家は里見家を吸収、里見家当主・里見義堯はその家臣となりました。しかし、彼は宿敵である北条に従っている現状を不満に思っているようです。
朝興は密かに千葉利胤を送り、義堯の叛心を高めます。いざ戦となった時、こちらに寝返る手はずを今のうちに整えておくためです。
ところがその後、北条氏綱は義堯の不満を和らげるために三崎城主に任命。これにより義堯の気分が変わり、寝返りの線は消失。しかし、密談はそのまま続けられました。
それからしばらくして、当家との同盟相手である甲斐・武田家との同盟期間が終了します。武田家は当家への警戒を強め、敵視の姿勢をとっています。そこで家宝を贈答して両家の緊張を解し、再度24ヶ月の同盟を結ぶことに成功します。
※武田信虎「よかろう! 恨みを越えて、手をとりあおうではないか!」信虎が言うのは、いったい何の恨みなのだろうか。
上杉・武田同盟の成立と時を同じくして、今川家が信濃への侵攻を始めました。太原雪斎が武田領を超えて、山内上杉に属する海ノ口城、小諸城を相次いで攻略します。
※駿府城から遠征である。山内上杉家は、もう何かダメな感じになってきた。小諸城の北西、砥石城では、長尾家が警戒の兵を集めている。
そのころ、越後長尾家も着々と勢力を伸ばし、信濃を狙っていました。その長尾家が、今川家と小諸城で衝突。それからすぐに小諸城落城の報が届きました。
敵の敵は味方です。長尾家は上杉家と複雑な関係にはありますが、北条と同盟を組む今川をけん制するために、当家としては友好を結びたいところ。しかし、姿勢は敵対です。
朝興は武田家との同盟成功に味をしめていたので、ふたたび家宝を送って外交工作を開始します。当家を訪れていた商人・津田宗及から算盤を購入。長尾為景への贈り物としました。
※メイド・イン・チャイナ(?)の算盤か……。為景は気に入ってくれるかのう。
この算盤外交によって、両家の距離感は縮み、その後、同盟を組むこととなります。
秋の深まる折、密談を続けてきた里見義堯から一通の密書が届きました。
※「北条家が当家に攻め寄せるとのこと 鵜呑みにはできませぬが、ご用心くだされ」
ついに、扇谷上杉家と北条家との決戦の時が近づいてきました。